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尖り過ぎた感性を持て余す人、が幸せに生きるには
生きづらさを抱える人の中には、ある一つの方向に突出した才能を持つ人がかなりの数いる様に感じています。
どの方面の才能なのかは、人により様々だと思いますが、芸術的な資質を有する人は特に多い様に思います。
生きづらさを抱える人は心の中に、確かな【自分】という意識、確固たる【自分】、が育っていません。
【自分】の外郭線が、自分と他者の感情を分ける、心理的境界線、です。
ですから、【自分】が育っていれば、感情の境界線は明確に引かれています。
【自分】があるのに、境界線が曖昧、という状態はありませんし、
境界線が明確なのに、【自分】が無い、といった事はあり得ません。
【自分】が卵の中身なら、心理的境界線は卵の殻、といったイメージです。
【自分】が育っておらず、自他の感情を分ける境界線が曖昧な生きづらい人は、
他者の感情と自分の感情の垣根が低いが為に、過剰に他者の感情を引き受けてしまったり、
その特性が翻って、過集中の状態に陥ったりする事が、
人の心を揺さぶったり、創作に没頭したりといった芸術の分野の才能と密に関わり合っているのだと思います。
しかしながら、芸術の才能がある事と、その道に進む事、更にはその道で成功する事は別問題です。
成功には、環境や人との繋がりや、出会い、タイミング、といった諸条件の方が、むしろ重要なのかも知れません。
才能が無くても世に出る芸術家はいますし、才能があっても成功はおろか、その道に進む事さえ無い人の方が圧倒的多数です。
才能がある人が、その方面に進まなかった場合、感受性が強い事、過集中する事、などは大半がそのまま、生きづらさ、になってしまいます。
生きづらい人の才能は、諸刃の剣です。
活かせる場所に身を置けば、大いなる助けになりますが、
述べた様に、活かせる場所に辿り着く方が万に一つです。
辿り着かない場合は、才は生きづらさになります。
そもそも才能を活かす場所に身を置く事が出来、仮に大芸術家になったとしても、
その人の社会的成功と、その人の幸せは、イコールではありません。
成功を手にしても、不幸を感じる人は不幸ですし、
才能を活かす場所に身を置く事が出来なくても、その人が幸せを感じているならば、幸せです。
願わくば成功も幸せも併せて手にしたいと思うのが人情かも知れませんが、
述べた様に、社会的成功と才能の有無は必ずしも紐づかない場合が多いのです。
そして、その人が幸福なのか不幸なのか、も社会的成功とは必ずしも結びつきません。
社会的に成功を収め、名誉も財産も手に入れた音楽家が、自らの手で人生に幕を引く事も間々ある訳です。
幸福とは、社会的成功では無くその人が幸せを感じているか否かの一点に集約されます。
では、その人が幸せを感じるには、何が必要なのか、と言うと、
自分が自分として生きる、という事なのだと思うのです。
作り物や、借り物の自分では無く、自分の感情や存在に疑いを持つ事無く、ありのままの自分を自分自身が受け容れる事が出来たなら、
社会的に成功していようがいまいが、名声があろうがなかろうが、金持ちだろうが貧かろうが、
きっとその人は幸せな、今、を感じ、
幸せな、今、が連なって、幸せな人生を歩みます。
前述した、世に沢山いると思われる、才能溢れる生きづらい人、は、
環境や人との出会いやタイミングに恵まれず、
持てる才能を眠らせたまま生きる場合が大半です。
そうなった場合、鋭敏な感受性や卓越した集中力は、苦しみを生み出してしまいます。
周囲の一般的な感性の持ち主との間に、埋められない溝を感じ、ひとりぼっちな感覚に埋没します。
実際、余りにも鋭敏な感受性は、その人を孤立させる事が常です。
表現が適切では無いかも知れませんが、つまり、周囲と調和する為に、鋭敏な感受性を持つ生きづらい人は、
手心を加える、感覚が常時あります。
鋭敏な感受性を無いものにしないと、家族とも友達とも、上手くやって行けない訳です。
するとどうしても、自分が自分として生きる事が出来ず、
ありのままの自分を受け容れる事は叶わず、
幸せを感じる事からは離れてしまいます。
その苦しさは基本的に他者に解って貰える事はありません。
私は周囲に合わせる為に手心を加えて生きています、などと口にしたならば、思い上がっている、と思われ、総スカンを喰らうのがオチです。
実際、この現実世界で生きるには、生きづらい人の鋭敏な感性は、苦しみの種になる事の方が多いと思います。
だから、周囲に対して手心を加えたまま生き、
その手心を加えた状態が常態化し、自分の能力を低く低く見積もり、
自分の事を能無しだと決めつけ、周囲もその人を能無しとして扱っている場合がとても多い様に思うのです。
才能を完全に眠らせているのですから、勿体無い話しですが、
実際問題、その才能は今の世の中では、異端、である事も事実です。
勿体無い、と言いましたが、社会的に成功する事を軸に考えれば、勿体無い、のであって、
その人が幸せになる事を軸に考えれば、成功と幸せは無関係なのですから、何も勿体無くはないのです。
ただ、手心を加える感覚があったり、更には、手心を加える状態が常態化したまま生きると、
その人はいつまでたっても不本意さを抱え、自分を抑えつけたまま生きる事になります。
才能溢れる生きづらい人が自分自身を救うには、
自分の心は自分だけの自由な場所である事を思い出す事が必要だと考えます。
表立って、私は周囲に手心を加えて接しています、と表す事は出来ませんし、表す必要もありません。
心の中は誰に遠慮する必要も無い自由な自分だけの場所です。
生きづらい人の鋭敏な感性は、才能であり、同時に生きづらさの種です。
高く自己評価すべき長所であり、
周囲と調和する為に抑え込ま無ければならない側面でもあります。
心の中でまで抑え込む必要はありませんが、表に誇る事でもありません。
才能ある生きづらい人が為すべき事は、
先に触れた、卵の中身である【自分】を育てる事だと思うのです。
卵の中身の【自分】が育てば、卵の殻の、自他の感情を分ける心理的境界線は明確に引かれます。
中身が育てば殻も育つのです。
そうなる事で、心の内側で自分の能力を正当に評価しながら、
周囲との調和を保つ事が出来る様になります。
それは、本音と建前とか、外面と内面といった事では無く、
心の中は本来、誰にも咎められない自由な場所である事を思い出すこと、に他なりません。
才ある生きづらい人が、
自分自身を過小評価する事なく、
周囲と調和を保つ折り合いをつけるには、
心に【自分】を育てることが不可欠です。
それが、幸せな、今、を創り、
今、が連なって、
幸せな人生をきっと、歩めます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム