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競わせる親は、子供の人生を奪う
我が子に、その場その時で、最高の子供である事、を望む親が居ます。
たとえば授業参観に行けば、積極的に手を挙げて、どの子よりも気の利いた発言をする事を望みます。
親戚が集まったら、明朗快活で絵に描いた様な良い子である事を望みます。
親自身が体調を崩した時には、親が具合が悪い事をいち早く察知して、家事を進んでやり、優しい言葉をかける思いやりの塊の様な子である事を望みます。
運動会の駆けっこでは一番である事を、
習い事のピアノの発表会では他のどの子よりも素晴らしい演奏を、
とにかく、その場その時で、最高の結果を出す事を、我が子に望みます。
幼い子供と、その親では、力関係は圧倒的に親が強く、子供はとても弱い存在です。
力関係が偏った中で、親が幼い子供に強く望む事は即ち、強いる、事になります。
其処には、子供の心情も適性も、好き嫌いも意味を持ちません。
幼い子供にとっては、親がすべて、ですから、
子供は、心情、適性、好き嫌い、を無視されても、親の期待に応えようとします。
その親は、その場その時で最高の子供である事を、強いる、ので、
子供は応えようとして、いつも無理をして、背伸びして、つま先で立っている状態になります。
幼少期は本来、子供が親から無条件に受け容れられる人生唯一の特別な時期です。
親からありのままの自分を無条件に受け容れられる事で、その子の心は育ちます。
自分は、そのままで価値があり、そのままで受け容れられる、という感覚を得るのです。
ところが、いつもいつもその場その時で最高の子供である事を強いられる子供は、
ありのままの自分では受け容れられない、という感覚を持ってしまいます。
無理をして、最高の結果を残して初めて自分は親から受け容れられる、ありのままの自分には価値は無い、という無価値な思い込みを、その子は心にべったりと貼り付けてしまいます。
その親は過剰な期待を我が子にかけ続けます。
過剰な期待は、親の勝手な妄想です。
大半の場合、親の勝手な妄想通りに事は運びません。
何故なら、その子は普通の子供だからです。
得意、不得意、好き、嫌いがある普通の子供だから、です。
そもそも最高に積極的な子供は、往々にして配慮に欠ける側面を持っているでしょうし、
最高に活発ならば、行儀良くする事は苦手な場合が大半です。
しかし、その親は、積極性も配慮も、活発さも、行儀の良さも、すべてに最高を求めます。
その親は子供に、勝手に過度な期待を寄せ、子供が期待通りの結果を出せない事で、裏切られたという思いに執らわれ、不満を持ちます。
いつも不満に思い、いつもその不満を子供にぶつけます。
子供は親から、勝手に過剰な期待をかけられ、勝手に不満になられ、好き勝手に不満をぶつけられます。
参観日や親戚の集まりといった特別な時に限った事では無く、
その親は、子供の食事の際の箸の上げ下ろしから、立ち居振る舞いから、表情、挙げ句の果ては、その子の顔の造作や体型までもに不満を持ちます。
親が思い描く、最高の子供、の基準に届かないから不満になり、それを子供にぶつけます。
その親は、本当は最初から、不満な人、です。
何に不満なのか、というと、自分に不満なのです。
その親は、自分は無価値だ、という思い込みを心の内壁にべったりと貼り付けた人、です。
子供に、最高、を求めるのは、自分の無価値な思い込み、から目を逸らす為に、他者から褒められたいのです。
子供を褒めて欲しいのでは無く、最高の子供の親、として自分が褒められたいのです。
その親は、自分は無価値だ、と思い込んでいるのですから、自分に自信などありません。
自分は何事も成し得ない気がしているので、自分の代理で子供を競わせます。
他所の子よりも優れた、最高の子供の親、として他者から賞賛されたいのです。
我が子が、最高の子供、になり損ねたら、しくじったその子を、ダメな子だ、と責めれば良いのですから、自分の無価値な思い込みは痛みません。
痛むのは、しくじって親から責められるその子です。
責める親は、子供を責める事で、相対的に自分の価値が上がったかの様に錯覚します。
しかし、錯覚は錯覚でしか無く、その場限りの効力しかありません。
明日になれば無価値な思い込みに苛まれます。
だから、子供をダメだ、ダメだ、と責め苛む親は、今日も明日も明後日も、甘美な錯覚を味わいたくて、子供を自分の代わりに競わせ、しくじったなら責め苛みます。
その親にとって子供は、自分の無価値な思い込みから目を逸らす為の道具です。
自信の無い自分の代わりに子供に、最高である事を強いて、競わせ、
その子が必死になって良い結果を残せば、優れた子の良く出来た親、と賞賛される事で、無価値感から目を逸らす事が出来、
その子がしくじったなら、ダメな子だ、と責め苛む事で、自分の価値が上がったかの様な錯覚を貪ります。
どう転んでも、親は痛まず、痛むのは子供です。
子供の心は傷だらけになってしまいます。
生きづらさとは、そうして心に刻みつけられた幾多の、心の傷、と言えます。
生まれた時から、親が抱える、無価値な思い込み、から目を逸らす道具として生きた人は、
自分が傷だらけだという事に、気がつく事が先ず、易しい事ではありませんが、
もしも気がつく事が出来たなら、
今まで親の道具として生きたのですから、
今度は自分自身の為に生きて欲しいと思うのです。
傷だらけになりながら、親を支えたその人は、
自分の為に生きる事に罪悪感を持ちがちです。
しかし、深刻な無価値な思い込みを持つ親が、今日まで生きられたのは、
その人が犠牲になって親を支えたから、です。
その意味で、
その人は最高の親孝行を既に済ませた人、なのです。
今度は、自分の人生を生きる番です。
自分として、
自分の為に、
自分の人生を生きて欲しく思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム