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その子が自由に翔ぶ為の翼

興味があるからやってみる、
関心があるから取り敢えず始めてみる、
好奇心を刺激されて行動に移す、

人生を活き活きと生きる推進力は、純粋な興味、関心、好奇心、だと思うのです。

興味、関心、好奇心に基づいて行動した時、結果の成否に関わらず、行動を起こした時点で既に、ひとつ満足を得る事が出来ます。

自分の内側から湧き上がる欲求に従って行動を起こした事に喜びを感じます。

勿論、行動を起こすからには成功を目指しますが、成功を目指すプロセスから既に喜びは始まっています。

プロセスに喜びを見出す事が出来る行動は、たとえその試みが失敗に終わったとしても、
その失敗は貴重な経験として自分の上に積み上がります。

成功したのならば、それは成功体験となり、自信に変わります。

仮に、失敗しても貴重な経験は積み上がり、
成功すれば自信がつきます。

要するに、湧き上がる純粋な興味、関心、好奇心に基づいた行動を起こした時点で、
失敗しても成功しても、その人は満ち足りた「今」を手にする事になります。

「今」の連なりが、人生、と言えます。

過去がどんなに色鮮やかに蘇っても、
未来の不安や希望がどれ程リアリティを帯びていても、

過去や未来は、私達の思考が創り出す想念です。

想念である限り、触れる事は叶いません。

私達が触れる事が出来るのは「今」という現実だけ、なのです。

人生に満足したいなら、「今」を満足いくものにするしかありません。

人生を豊かにするならば、豊かな「今」を感じなければなりません。

「今」を蔑ろにして、豊かな人生を望んでもそれは叶いません。

触れる事が出来る「今」の連なりが人生だから、です。


その意味では、純粋な興味、関心、好奇心に基づいて生きる人は、
それだけで豊かな人生を手にする、と言う事すら出来てしまいます。


湧き上がる純粋な興味、関心、好奇心を捨てなくてはならない幼少期を過ごした人は、やがて生きづらさを抱えて生きる事になってしまいます。

親はその人に、自由な感情を持つ事を許しませんでした。

親の感情を常に優先する事を求められる環境でした。

どんなに悲しくて涙が零れそうでも、親が明るく笑う事を求めていると察知したなら、
親の望み通りに、笑って見せる幼少期でした。

悲しい気持ちは無かった事にして笑うのです。

そんな親子関係に晒され続けた人は、純粋な興味、関心、好奇心をも、無いものとして幼少期を過ごします。

親の興味が自分の興味、
親の関心が自分の関心、
親の好奇心が自分の好奇心、です。

その人は生まれた時から、そうやって生きて来たので、
親の興味、関心、好奇心と、自分のそれが同じである事に気がつきません。

更には、自発的な興味、関心、好奇心では無いので、プロセスはどうでもよく、結果ばかりが気になります。

成功しないなら、やりたくないのです。

その人の興味、関心、好奇心は、純粋、なものではありません。

親の興味、関心、好奇心であり、更には親や周囲の他者が賞賛する成功だけにしか、興味、関心、好奇心が湧きません。

よって成功しない試みは、したくありませんし、欲しているのは自分の、満足、では無く、親や周囲の賞賛です。

極端な結果至上主義に陥ります。


プロセスに喜びを感じず、結果ばかりを欲しがる「今」に豊かさは無く、

その「今」の連なりである、人生、は殺伐としたものになってしまいます。


親が子供の、湧き上がる純粋な興味、関心、好奇心を汲み取ってあげる事は、
巨万の富を与えるよりも、もっと大切な事だと思うのです。

何故なら、湧き上がる純粋な興味、関心、好奇心は、人生を活き活きと生きる為の推進力だから、です。


将来役に立つから、と子供が興味を持っていない幼児英会話の教室に入れるよりも、

その子が昆虫が好きなら、その興味の芽を摘み取ってはならない、と思うのです。

おそらくは将来、その子が昆虫学者になる事は無いにしても、

その子が育んでいるのは、昆虫の知識、では無く、純粋な興味、関心、好奇心です。

自分は何が好きで、好きな事をするのはどんなに楽しくて、それを出来る人生は素晴らしい、という事を、昆虫を通じて知るのです。

言わば、人生を活き活きと生きる推進力、を育んでいるのです。


幼いその子の小さな興味は、豊かさの種、です。

幼いその子の微かな関心は、満足への推進力、です。

幼いその子の好奇心は、その子の人生を創ります。

その子の純粋な興味、関心、好奇心は、

自由に翔ぶ為の翼です。

決して手折ること無く、

大切に、育んであげて欲しく思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム









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