親にもらった人間関係のひな型
子供は親子関係をひな型にして、その後の人間関係を構築します。
親子関係は子供にとっては、人との関わり方のモデルケースです。
心理的に成熟した親の下に生まれた子供は、幼稚園でも、学生時代も、社会に出ても、自ずと健康的な人間関係に囲まれ易い、と言えます。
一方、心が未成熟な親の下に育った子供は、どうしてもモデルケースである自分と親との間で交わされるものと似たコミュニケーションを取る人と親しくなります。
心理的に成熟した親は、子供を一人の人間として尊重します。
色々細々ありますが、一言で表すならば、その親子関係の根底にあるのは、尊重、です。
一人の人間として尊重するから、思いやる事が出来、
子供は親の思いやりに触れて初めて、安心感を得るのです。
安心感に抱かれた子供は、自分はただ此処に存在するだけで既に価値が有る、という感覚を持つに至ります。
心理的に未成熟な親は、子供を一人の人間として尊重する事が出来ません。
心理的に未成熟な親は子供を、自分のもの、だと認識しています。
自分の所有物です。
自分がお腹を痛めて産んで、あげた、
自分が育てて、あげた、
だから自分のものとして、所有、します。
相手を一人の人間として、尊重、する時、思いやり、が生まれますが、
相手を自分のものとして、所有、したなら其処に、思いやり、は決してありません。
思いやりが無ければ、子供は安心感を得られません。
あるのは、一人の人間として尊重されない、無価値感、です。
無価値感に苛まれる子供は、ただ其処に居るだけで、許されない様な、申し訳無い様な思いに囚われます。
心理的に成熟した親は、子供を尊重する事で、安心感を与え、それが、その子に、ただ此処に居るだけで自分には価値が有る、と確信させます。
心理的に未成熟な親は、子供を所有する事でその子に、一人の人間として認められないという、無価値感を植え付けます。
尊重と所有、安心感と無価値感、傍から見ただけでは仲々見分けはつきませんが、両者は真逆の世界を創り出します。
健やかな世界と、生きづらい世界です。
一人の人間として尊重される親子関係を生きた子供は、
その親子関係をひな型にして、その後の人間関係を構築しますから、
自ずと相手を尊重する人が集まり易く、健やかな人間関係が構築され易いのです。
未成熟な親に所有された子供は、その親子関係がモデルケースですから、
どうしても、自分の親と同様に所有する、所有されるといった、思いやりを欠いた人間関係になってしまいがちです。
生きづらさを手放した人が、口を揃えて言うのが、
これまでの人間関係が真逆に見える、という事、です。
温かいと思っていた人が、冷たい人で、
冷たいと思っていた人が温かい人、
誠実だと思って信じた人が、欺く人、
不誠実だと思っていた人が、信頼に値する人、だったと言うのです。
人の悩みの殆どが、人間関係の悩みと言います。
ならば優しい人と、ズルい人を、取り違えて生きていたのですから、
幸せに向いて歩んだつもりで、
不幸へ、不幸へと突き進む人生になってしまいます。
生きづらさを手放した人は、殆どが、これまでの自分を取り巻く人間関係の真実を見て、驚きます。
薄ら寒さすら覚えます。
生きづらさを手放した人は、そうですが、
生きづらさを手放そうと、自分と向き合っている最中の人は、
真実が薄らぼんやりと浮かび上がった状態で、
親子関係を含めた自分を取り巻く人間関係に、郷愁にも似た懐かしさを覚えます。
半分は否定しながらも、残りの半分は、元の人間関係に戻りたい気持ちになります。
慣れ親しんだ人間関係だからです。
自分が持っている人間関係のひな型に、がっちりとはまり込むからです。
しかし、そのひな型を頼りに生きたから、
温かさと冷たさを取り違え、
誠実な人を遠ざけ、ズルい人を呼び寄せ、
幸せの方角に向かうつもりで、
不幸せに向けて歩んで来たのです。
生きづらさを手放そうとすれば、
幾つかの障壁が立ち塞がります。
個人差はありますが、
これまでの人間関係のひな型を、
捨て去る事の難易度は、
決して低くはありません。
心の内で切り分ける関係もあれば、
実際に縁が切れる関係もあるでしょう。
痛みを伴います。
これまで慣れ親しんだ親からもらった人間関係のひな型を捨てる事でしか、
自分のひな型を手にする事は出来ません。
本気にならなければ捨てられませんし、
本気だからこそ痛みを伴います。
痛んでも捨てるのか、
それとも、このまま生きるのか、
決めるのは、自分自身です。
どんな自分で、どんな人生を歩みたいのか、
その一点で決めたらよいと思います。
自分の心を決める権限は、
自分にしかありません。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム