気持ちを言葉にすると涙が零れる人
自分の気持ちを言葉にしようとすると、涙がこみ上げる人は少なくありません。
心には、未消化の感情を貯めるコップがあります。
涙がこみ上げるその人は、長い時間を掛けて感情のコップがいっぱいになり、
もうこれ以上、未消化の感情を貯める事が出来なくなっています。
だから、感情が揺れた時、未消化の感情が涙となって零れます。
親が子供を一人の人間として尊重する事が出来る人であったなら、
子供は未消化の感情を心のコップに貯め込む事はありません。
勿論、いつも子供が感情のままに泣いたり、怒ったり、はしゃいだり出来る訳ではありません。
時に、幼い子供であっても、我慢を強いられる場面は沢山あります。
たとえば、お店の中でその子がはしゃいで走り回ったり、跳んだり跳ねたりしたならば、親はたしなめるでしょうし、
家族旅行の飛行機の中で、その子が泣き叫んだら親はとめるしかありません。
幼いその子が我慢しなくてはならない場面は幾らでもあります。
そんな事が問題なのでは無く、親の心の基本的な構えが肯定的か否か、ということが大切なのです。
親に子供を受け容れる心が有るかどうか、が重要だと思っています。
子育てに正解は無く、どんな親でも間違います。
ついつい出過ぎたり、うっかり届かなかったり、時にぶつかり、時に転んで、悩みながら、子育ては続きます。
親の子供を尊重する気持ちは、子供にとっては傷薬です、赤チンなのです。
時に間違って、白く柔らかな子供の心に小さな傷をつけてしまっても、
親が子供を一人の人として尊重する心の構えを持っていれば、傷はたちどころに癒されます。
少し深めに傷ついてたとしても、親が尊重する構えを持っていれば、
残った傷跡は、その子の大切な個性になります。
思慮深いけど少し怖がり、とか、
元気いっぱいだけど少し慌てん坊、といった、その子の個性になります。
しかし、親が子供を一人の人として尊重する事が出来ない人であった場合、
親は子供を、自分の持ち物として、所有、します。
自分が生んであげた、
自分が育ててあげている、
だから、自分のもの、という認識です。
それは、親の心の奥底に秘められた認識であり、意識の上では親は、子供の為を思っているつもりです。
けれども、その親は、子供を一人の人間として認めていないのですから、子供の為を思っているつもりで、一から十まで自分の事しか考えられません。
そんな親子関係に晒された子供は、泣きたくなっても、親の顔色を伺い、親が明るく笑う事を求めていると察知するや、とびきりの笑顔を振り撒きます。
その時、自分の泣きたい気持ちは、心の奥のコップに入れられます。
親子関係は、ずっと続きます。
その子は、今日も明日も明後日も、親の顔色を見て、親の感情を優先し、親の要求に応えます。
自分の未消化の感情は全部、心の奥のコップに入れます。
健康的な親子関係は、子供の感情を親が肯定的に扱います。
親が無条件に受け容れます。
そういう親子関係であったなら、子供はその場その時で、湧き上がる感情を消化する事が出来て、
心のコップがいっぱいになる事はありません。
親の顔色を伺う子供は、親の感情や要求を無条件に受け容れています。
幼い子供は本来、親から感情を受け容れて貰う側なのに、
親の感情を無条件に受け容れる立場に立たされます。
幼い子供にとって、それは耐え難い我慢の毎日です。
この時点で、親子の役割は逆転しています。
親子の役割逆転は、虐待です。
自覚はおそらく無いと思います。
自分の感情を口にしようとした時、涙が零れそうになる人は、
自覚は無くても、心のコップは既にいっぱいで、表面張力でもって、やっと零れないでいる状態です。
だから、自分の感情を表現しようとするそれだけで、
心は揺らぎ、コップから感情が零れます。
未消化の感情をコップに入れて貯め込み、親の感情を無条件に受け容れ続けた人は、生きづらさを抱えて生きる事になってしまいます。
生まれた時からそうやって生きて来た生きづらい人の多くは、自分の生きづらさに気がつきません。
生きづらいのが当たり前なので気がつきません。
しかし、余りにも重く、余りにも苦しくて、当たり前を突き破って気がつく人がいます。
気がついたその人は、生きづらさを手放そうと、心のこと、について情報を集め、本に学び、知識を積み上げます。
心理学、哲学、宗教、自己啓発、スピリチュアル、様々な知識が増えていきます。
しかし、心の重たさは取り払う事が出来ません。
知ること、は大切です。
生きづらさを手放そうと、集めた知識は無駄ではありません。
しかし、外から知る前に、内を知る、自分を知る事が大切だと思うのです。
フロイト、ユング、アドラー、ショーペンハウアーに詳しくなる前に、
自分の感情を口にしようとした時に、どうして涙が零れるのかを知ることが、生きづらさを手放す糸口であると思っています。
少し揺らいだだけで、零れてしまう程まで、貯まってしまった未消化の感情を、
すくい上げ、感じ取り、消化してあげられるのは、
他でもない、自分自身だけ、なのです。
自分と向き合う事、
自分を解ってあげる事、
自分の一番の理解者に、
自分がなってあげる事が、
生きづらさを手放す事だと思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム