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虐める人は虐めることを悪いとは思わない

虐待する親は虐待を、子供の為の教育や躾けだと思っています。

いじめっ子は虐める事を、親しさの表現だと思っている場合が多々あります。

思っている、と表現しましたが、伝わり辛い事なのですが、
虐待する親も、いじめっ子も、心の奥では、自分が虐待している事、自分が虐めている事を知っています。

その証拠に、虐待も虐めも、大っぴらに行われる事は少なく、閉じられた中で、密かに行われる事が大半です。

大っぴらにしない、という事は、良くない事をしている、という認識がある、という事です。

しかし、良くない事をしている、という認識を、意識から押しのける感覚を虐待する親もいじめっ子も持っています。

自分が強くて相手が弱い、自分が優れた存在で相手は劣った存在だ、という感覚です。

だから、社会通念に照らして良くない、という事を知っているから、大っぴらにはしない訳ですが、

強い自分、優れた自分には許される、という歪んだ特権意識が、社会通念を押しのけます。

虐待の場合は、親子というハッキリとした力関係が先ずあります。

言うまでも無く、
親が、強、であり、親が、優、
子が、弱、であり、劣、です。

虐めの場合は、歯向かわない子が、ターゲットになります。
いじめっ子が、強、優、
歯向かわない子が、弱、劣、です。

そもそも、尊重する気持ちが心の中に育っているならば、強弱、優劣が、虐待や虐めに短絡的に結びつく事は無いのですが、

何らかの原因があり、心が成長の歩みを停めてしまった人は、他者を一人の人として、尊重することが出来ません。

尊重出来ない人は、物理的に他者と向かい合っていても、心理的には極めて独りよがりな世界に立っています。

他者の心を慮る、他者を思いやる、という事が決定的に欠けています。

社会通念は解ります。
それは、決まり事、だからです。
決まり事は理解しますが、他者を思いやる、情緒、が未発達です。

決まり事だけで判断する人は、見つからなければ良い、隠し通せば良い、という独りよがりな判断に陥ります。

決まり事は理解しても、思いやる情緒が未成熟だから、です。


情緒未成熟な人の判断基準は、先に述べた、強弱、優劣、の他に、損得にも偏ります。

情緒が未成熟で、感情が鈍麻して、本人は、好きか嫌いか、で物事を選択しているつもりなのに、実は損得で動いている事が多い様に思います。

たとえば、クルマを買うにしても、乗り替える時のリセールバリューが良い車種や車体色を選びがちです。

この車種、この車体色が好きだから、では無く、高く売れるから好き、なのです。


情緒未成熟な人が親になると、親は親というだけで偉いのです。

お腹を痛めて産んで、あげた、から、
苦労をして育てて、あげた、から、
です。
だから、子は親に従うべき存在、なのです。
交換条件であり、損得です。
親自身は、その交換条件を親子の情愛や親孝行と、半分無意識、半分意識的にすり替えます。

いじめっ子は、強い自分は、弱い相手を虐めて良い、と思っています。
弱いのに、自分と対等に口をきくのが癪に障ります。
他者を一人の人として尊重出来ないからです。
社会通念は理解していますから、表立っては虐めません。
隠れて虐めます。
情緒が未成熟だから、思いやりがありません。
見つからなければ、虐めて良い、
見つからなければ、自分は悪く無い、
と感じています。

例として適切かどうかは自信がありませんが、犯罪を犯した人が、捕まった後の取り調べで、心境を問われた時に、

犯した罪や被害者に対する反省を口にする事無く、捕まってしまった事を反省する、という話しを耳にした事があります。

情緒が未成熟だと、相手を思いやる事の無い、極めて独りよがりな世界に生きている、と言えます。

見つかれば悪、見つからなければ善、ということです。
良心の呵責が無いのは、情緒が未成熟だから、です。


情緒が未成熟な人が、心理的に成長するには、本人が気がつく事が必要です。

周囲がどれだけ熱心に諭しても、響く心が育っていないのです。

かつて虐待の環境に育った人が、自分が抱える生きづらさに気がついた時、

自分が気がついたのだから、親も話せば解かる筈だ、と言います。

或いは、自分を虐待した親に、解らせて謝らせたい、と言う人も居ます。

話せば解かる筈、も謝らせたい、も仲々叶う事はありません。

何故なら、情緒が未成熟だから、です。

学生時代に虐めた人は、隠れて虐めた事は記憶にあっても、虐められた人がどれ程傷ついたか、は理解出来ませんし、覚えてさえいない事が多いのです。

隠れて虐めた事は社会通念上、問題有りと認識しているから記憶に残ります。
しかし、虐められた人の心情は情緒が未成熟なので理解出来ず、印象に薄く、記憶に残りません。


虐待された人、虐めにあった人が、自分の心の傷を癒す時、

向き合うのは、自分の心の傷です。

親や、かつて虐めた相手に、

解らせようとする事は、

心の傷を癒す事には繋がりません。

自分と向き合って、

自分は自分、親は親、

自分は自分、他者は他者、

と、線を引ける事が、

心を癒す事、なのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム











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