この子への最高のプレゼント
人という生き物は元来、
自発的でありたい生き物、
なのだと思っています。
誰かに強要されて起こす行動や、
何かに追い立てられて起こす行動には、
いつも、不本意な思い、が付き纏います。
勉強しなさい、と言われて勉強するのと、
何だかやる気がみなぎって、やり出した勉強とでは、
充実感、没入感、達成感、満足感、などの全てに於いて、
雲泥の差が有る事を身を持って体験した人も多いのではないでしょうか。
どうやら人は、自分で決めたい、らしいのです。
私は記事中で度々、人が人生を突き進む推進力、は、
純粋な興味、関心、好奇心である、と述べて来ました。
純粋な興味、関心、好奇心が完全に失われた時、人は絶望します。
対象は何でも構わないけれども、興味、関心、好奇心が向く先が、人には必要である、と考えます。
純粋な興味、関心、好奇心は、間違いなく、推進力、であり、
言葉を換えれば、希望、だと思っています。
その人が幸せな「今」を生きるには、純粋な興味、関心、好奇心を持つ事は、必須です。
私達が触れる事が出来るのは「今」だけであり、
過去がどんなに色鮮やかに蘇っても、
未来の希望や不安がどれ程リアリティを持ったとしても、
過去や未来は私達の思考が創り出す想念であり、
触れる事が出来るのは、「今」だけ、です。
「今」の連なりが人生です。
純粋な興味、関心、好奇心を持って、活き活きとした「今」を創り出したなら、
「今」が連なって、活き活きとした人生を、その人は生きます。
親が子供にしてあげられる最大の贈り物は、その子が、
純粋な興味、関心、好奇心を育む事が出来る環境を提供する事だと思うのです。
その子が、小学校に上がるや否や、周りの子に先んじて、ペーパーテストで一番を取り続ける為に、幼児教育の教室に入れる親は、
おそらく自分が、純粋な興味、関心、好奇心を育む大切さを親から教えて貰えなかった人なのだと思います。
勉強で一番になっても、有名な進学校に入る事が出来ても、東大から一流企業に進んでも、
その子が、その人生を自分で選び取ったという感覚を持てなかったとしたら、
きっとその子は、不本意、です。
人生そのものが、勉強しなさい、と強要されて机に向かった時と同様の、不本意さ、を湛えます。
不本意さ、に捕まった人が見る世界は、
当然ながら、淀みます。
「今」に希望は見えず、
希望の無い「今」が連なった人生に希望はありません。
活き活きと生きることが出来ません。
子供を幼児教育の教室に入れる事が間違っている、と言っているのではありません。
習い事が良く無いと言っているのでもありません。
ただ、その子の興味、関心、好奇心が、何処に向いているのか、
その教室や習い事に向かっているのか否か、を親が感じ取る事は大切です。
純粋な興味、関心、好奇心を蔑ろにされる幼少期を過ごした人が、やがて親になった時、
どうしても子供の、興味、関心、好奇心について無頓着になってしまいます。
その子の、純粋な興味、関心、好奇心に無頓着である、という事は、
その子が、活き活きと「今」を生きる事、更には、
その子が、人生に希望の光りを見つける事に、その親は無頓着、非協力的、否定的である、という事です。
つまり、それは強要であり、親のエゴです。
幼児教育をしっかり受けた子は、勉強が出来る様になる、良い学校に入り、良い職業に就き、良い人生を送る事が出来る、
その親は、先を見越した自分は賢い選択をしている、と自負します。
しかし、先を見越している、と思った時点で視点は「今」を離れています。
賢い選択だと思っていますが、子供から希望の光りを取り上げる、極めて近視眼的な視点からの自分の考えに子供をはめ込んでいます。
先を見越した自分は賢い選択をしている、と自負する親は、
子供の人生と、自分の人生の区別がついていません。
子供の人生の選択権は子供にあります。
親に選択権はありません。
「自分は賢い選択をしている」と自負する親は、子供を自分が呑み込んで、
自分のエゴを子供に押し付ける事と、
子供の為を思う事の区別がつきません。
呑み込まれた子供は、不本意な「今」を重ね、不本意な人生を歩みます。
親が子に渡す事が出来る最高の贈り物は、
その子の純粋な興味、関心、好奇心を見つめてあげる事だと思っています。
純粋な興味、関心、好奇心は、その子が活き活きと生きる為の推進力であり、希望の光りです。
見つけて、
見つめて、
育んで欲しく思います。
その子はきっと、
優しく、強く、幸せな子になります。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム