軽やかに人生を歩むには
軽やかに活き活きと人生を歩むには、自分の人生の全責任を負うことが、唯一の方法だと思っています。
重々しい気持ちで、生きづらさを抱えて生きる人は、
他者の重荷を負わされた人であり、
他者の重荷を背負っているから、
自分の人生の責任を背負うことが出来なくなっているのです。
自分の人生の責任を負えないと、人生は他人事に思えます。
自分の人生でありながら実感が伴いません。
リアリティが無いのです。
砂を噛む様な虚しさです。
その人に、重荷を背負わせたのは、その人の親です。
負った荷物は、親が抱えていた、生きづらさ、です。
親は、重たい生きづらさを抱えて生きて来て、その重さに耐えかねたのです。
そして親になり、自分を慕って止まない我が子という存在と出逢います。
子は親を慕って止まない仕立てになっています。
生きづらさを抱えていない健康的な心を持つ人が親になったなら、自分を慕って止まない我が子は、この上無く愛おしい存在として、目に映ります。
しかし、生きづらさの重さに耐えかねる親は、自分を慕って止まない我が子の姿が、絶対服従の姿勢に見えてしまいます。
重い荷物に潰されてしまいそうな親は、荷物を引き受けてくれる相手を探す事が、人生の目的になってしまっています。
そこに現れた絶対服従の姿勢を崩さない我が子に、重たくて耐えかねていた、生きづらさという荷物をそっくり背負わせます。
身軽になった親は、我が子に、
どうしてもっと速く歩けないんだ、
どうして苦しそうにしているんだ、
速く歩け、楽しそうに笑え、と指図し、
速く歩けないお前は駄目なヤツだ、
苦しむお前はだらしがない、
お前に価値は無い、と時に言葉で、時に態度で責め立てます。
背中の重たい荷物の中身は、無価値の思い込み、です。
幼い子供には、文字通り荷が重過ぎます。
その子は、親の感情や要求には敏感でも、自分の感情が解りません。
嬉しい事があっても、はじける様な感覚は無く、何となく嬉しい程度に留まります。
周りが嬉しそうだから、自分も嬉しそうにします。
悲しい事があっても、辛くても、寂しくても、
いつも心の奥は、悲しいし、辛いし、寂しいのですから、
目の前の悲しさ、辛さ、寂しさ、は、心の奥にいつもある、悲しさ、辛さ、寂しさ、に紛れて味わい尽くす事が出来ません。
生きづらさを背負わされたその人は、湧き上がる感情をすくい上げる事が出来ません。
感情を伴わない人生が他人事に思えるのは、当然です。
他人事の人生ならば、責任を負う事など出来ないのです。
大切な自分の、大切な人生と思えた時、
人は自分と、自分の人生の、全責任を負う覚悟が決まります。
腹を括る事が出来ます。
覚悟を決める、腹を括る、と言うと、何やら、大変そうだ、と思えたり、
全責任を負う、と言うと、プレッシャーに思ったりするかも知れませんが、
そうでは無くて、それは人が人生を歩む上で、当たり前の構え、です。
責任を負うから、自由なのです。
責任を負うから、喜びも、悲しみも、湧き上がる感情の全てが自分のもの、になるのです。
感情の全てが自分のもの、である時、人生は自分のもの、であり、
そうなって初めて、活き活きと軽やかに生きる事が出来ます。
人生の全責任を負う事のメリットは計り知れません。
たとえば、他人を恨んだり、妬んだり、する事が無くなります。
何があっても、責任は自分にあるのですから、恨む必要も、妬む必要も無くなります。
人の悩みの殆どが人間関係に起因するのですから、恨む必要も、妬む必要も、犯人探しも、責任転嫁も無くなれば、どれだけ軽やかに居られるかは、言うまでも無い、と思います。
たとえば、湧き上がる感情は、全てが自分のものになります。
喜びも、悲しみも、楽しさも、寂しさも全部です。
感情の動物である私達が、活き活きと生きる、ということは、ポジティブもネガティブも全部自分の感情として感じ尽くす、という事だと思うのです。
たとえば、無駄とか徒労といったものが無くなります。
感情が自分のものになり、人生が自分のものになったなら、
自分の身に降りかかる出来事に無関心では居られません。
成功も失敗も、全部が興味深い自分の人生に起きた事、なのですから、
全てが、経験として自分の上に積み上がります。
人生から、無駄と徒労が無くなり、全ては、経験と知恵に変わります。
今生きづらい人は、苦しみの最中に在る人です。
しかし、今の苦しみは、
その人の可能性であり、
希望であり、伸びしろです。
過去がどうであれ、
気づいて、捉え方が変わるだけで、
自分が自分として、
自分の人生に踏み出す事が出来ます。
人生の景色は鮮やかさを増すのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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