落ち度、を探す人は要注意
他の個体より優位な存在でありたい、という本能は人間に限らず生き物全般に備わっています。
種として見れば種の保存の為、
個として見れば生き抜く為、
他の個体よりも優れようとする訳です。
自分の能力を誇示して、優位性を示す事は、あらゆる生物に自然の仕組みとして取り込まれています。
人間も他者に優位性を示します。
しかし、人間の場合は、自らの優位性を示すだけではなく、
他者の劣等性を際立たせる事で、自分の立ち位置を優位にする方法を取る事が多くあります。
自分をプラスの方向に押し上げるのでは無く、
他者をマイナス方向に押し下げる事で、相対的に相手よりも優位な立ち位置に収まる、もしくは収まったと思い込む事で安心する訳です。
よく「社会は厳しいんだ、自然界と同じ弱肉強食だ。」などと言いますが、
自然界の食物連鎖や種の繁栄の為の弱肉強食は、自分の力を誇示する事はあっても、相手を貶めて相対的に自分が優位に立つ手法は存在しません。
肉食動物が草食動物を捕食する際には、食物連鎖上位の動物が、下位の動物を喰うのですから、まさに弱肉強食ですが、そこに相手を貶めたり、足を引っ張る要素はありません。
私達がドキュメンタリー映像で、大きなライオンが可愛らしい子供のゼブラを捕らえる凄惨な光景を見て、いたたまれない感情になる事はあっても、そこに卑怯さや卑劣さを感じる事は無い様に思います。
それは、自然の摂理に沿った弱肉強食の潔さがあるからだと思うのです。
人間社会の厳しさを、自然界の弱肉強食になぞらえるのは、いささかおこがましい様に、個人的には感じています。
何故なら、人間社会の弱肉強食には、他者を貶め、足を引っ張って、相対的に自分が優位に立つ手法が当たり前に含まれているからです。
遠慮して、含まれている、と言いましたが、むしろ自分がプラス方向に伸びて優位性を示すよりも、他者をマイナス方向に押し下げる事で相対的に自分が優位に立つ事が人間社会のスタンダードなのではないか、と疑いたくなります。
人間は確かに、知、の方向に独自に長足の進化を遂げた生き物ですが、
その進化した、知、を在るべき形では使えてはいない様に思います。
ビジネス、政治、スポーツ、芸能、SNS、あらゆる場面で足の引っ張り合いが横行します。
あらゆる足の引っ張り合いを、あげつらってお話しする事は出来ませんが、
足を引っ張る事が賢い事と取り違えている人が実に多い、と感じています。
たとえば、親が子供を貶める事で、相対的に自分の価値が上がった様に錯覚し、
その錯覚を貪る事で、親自身が抱える自分には価値が無い、という思い込みから目を逸らす、機能不全家庭に於ける親子関係は、
自分をプラスに伸ばす事無く、相手をマイナスに押し下げる行為の典型例です。
そこには自然界の弱肉強食の潔さとは正反対の陰湿な匂いが漂います。
その匂いが親子という最もあたたかであるべき場所に漂うのは、長足の進歩を遂げた人間の、知、のバグではないか、と感じています。
問題が深いのは、その貶めたり、貶められたり、欺いたり、欺かれたりする親子関係に育った人が、
貶め、貶められる在り方を人の在るべき姿と解釈したまま、社会に出る事です。
人のコミュニケーションのひな型は親から子に渡されます。
前述した、親が子を貶める親子関係に晒された子は、
他者を貶める事で自分の価値が上がったかの様に錯覚し、
その錯覚を貪る在り方が、親から貰ったコミュニケーションのひな型です。
その親から貰ったテンプレート通りに、その子は人間関係を構築し、人生を歩みます。
学校生活でも、社会に出ても、他者を貶めます。
言わなくても良い他者の失敗や欠点を探し出し、指摘します。
その人にとってはそれが当たり前の、人との関わり方ですから、悪い事だとは感じません。
陰口、悪口、不平不満、を始終口にする人、誹謗中傷する人で、人間関係のテンプレートが歪んでいる人はとても多い、と感じています。
人はともすればネガティブに引っ張られ易い特性を持っています。
人が集まれば、その集まりの中の有力者が、他者を貶める人だった場合は、集まり全体が他者を貶める方向に向きますし、
有力者でなくても集まりの中のたった一人が他者を貶める様な人であったのに、それが周りに波及して、全体がおかしな空気になってしまう事もあります。
人や、人が集まる場所をジャッジする事を積極的にお勧めするものでは決して無いのですが、
述べた様に、他者を貶める人や場所は間違い無くあり、
余りにも無防備に、人に接し、場所に足を踏み入れて、心に痛手を負う人は少なく無いと感じています。
特に先に触れた、機能不全家庭に育った人は、
親に倣って他者を貶める人と、
親から貶められた様に、今度は他者から貶められる人、
更には、その時々の状況によって貶める立場に立ったり、貶められる側に回ったりする人、
の何れかになる場合が多くあります。
いずれの場合も、機能不全家庭に育った人が、貶める人と接し、貶める場所に立ち入る事に、良い要素は見つからない、と思っています。
機能不全家庭に育ち、生きづらさを抱えてしまった人が、生きづらさを手放した後は、貶める人が嫌でも見える様になります。
しかし、生きづらさの最中に在るうちは、見分ける事は簡単ではありません。
何故なら、貶める人は親に似ていて、貶める場所は、慣れ親しんだ家庭に似た香りがあるから、です。
生きづらさを抱えている、という自覚があるならば、
どこか懐かしさを覚える様な、人、場所、コミュニケーションの取り方、には無防備にならない事を、頭の片隅に置いておく事は大切な様に思います。
物腰が柔らかくても、
優しげでも、
笑顔でも、
冗談めかして落ち度を拾い上げる人は要注意です。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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