生きづらさの世界は逆さまの景色
にわかには信じられないかも知れませんが、生きづらさの世界に生きている人は、世の中が逆さまに見えています。
物理的に天地左右がひっくり返って見えている訳では勿論ありません。
優しさを求めながら、何故か優しさを遠ざけます。
あたたかさを欲しながら、何故か冷たさに近寄ります。
嘘が真に見え、愛と憎しみを取り違えます。
そんな世界に棲み、そんな景色を眺めて生きる様になったのには、理由があります。
その人の親が、優しさを知らない人だったからです。
その人の親が、冷たさをあたたかさだとその人に教えたからです。
その人の親が、抱えきれなくなった自分の中の憎しみを、
これが愛だと偽って、その人にぶつけたからです。
その人の親は、愛を知りません。
生きづらさを創り出す機能不全家庭は、偽りの愛と、その人の犠牲の上に成り立っています。
そんな世界で育ったから、その人は逆さまの景色しか見えなくなってしまったのです。
その親は、お前の為を思って…、と言いながら、自分のことしか考えられない人です。
その親もまた、自分のことしか考えられない人に育てられたから、そうなりました。
惜しみなく与えているつもりで、限りなく奪う人から育てられたから、その親は、そうなりました。
だから親には、子供を欺いている意識はありません。
半ば本気で、自分は子供の為だけに生きている、と思い込んでいます。
一から十まで自分のことしか考えていないのに、子供の幸せだけを考えて生きている、と思っているのです。
そんな逆さまの世界に生きる親に呑み込まれて生きたその人は、
逆さまの景色を見る人になります。
やがて成長し、幼稚園、小学校と進んで、親以外の他者と関わり合う様になっても、
逆さまの景色しか見えないその人は、優しい人を遠ざけ、親と同様に、欺く人、偽る人、憎しみをぶつけて来る人ばかりと関わり合います。
逆さまに見えているのですから、その人の目には、冷たい人が優しい人に見えています。
騙す人が誠実な人に見えているのです。
「大丈夫か?お前の事が心配だよ。」と言いながら、影で悪口を言う様な人を大切に思い、
本当の優しさを与えてくれる人を遠ざけます。
自分の尊厳を守る為に決して譲ってはならない局面で、迎合し、
素直になって然るべき時に、頑なに突っぱねます。
楽しむべき時に、楽しめず寂しさに沈み、
深く考察すべき時、茶化します。
逆さまの景色を見ているのですから、どうしても、調子外れになってしまいます。
何かと調子外れな上に、優しい人を遠ざけ、ズルい人を受け容れますから、
生きづらい人の人間関係は、苦しみや憤りに満ちたものにならざるを得ません。
生きづらさに気がついて、自分と向き合い、生きづらさを手放すまで、
逆さまの景色は続きます。
とても信じ難いと思います。
あたたかいと思った人が、実は冷たい人で、
信じた事が、ことごとく逆なのです。
つまり、幸せになろうとする程に、不幸に近づいてしまう生き方だったのです。
生きづらさを手放して初めて、世界はぐらっと揺れて、天地左右が然るべき所に収まります。
自分を取り巻いていた、人間関係が如何に自分を苦しめるものであったかが、あからさまに見える様になります。
生きづらさに気がついて、生きづらさを手放そうと自分と向き合う最中は未だ、
信じていた親に裏切られたと、激しい怒りを覚えますが、
手放して、天地左右が然るべき所に収まって、改めて眺める親子関係、そして自分を取り巻く人間関係は、
なんだか薄ら寒く感じます。
ここに埋没しては、幸せに生きられる訳が無い、と腑に落ちます。
生きづらさを手放すことは、大きな尊い気づきを得ることです。
気づきに至った人は、全てが変わった、と口を揃えて言います。
逆さまに見ていた景色の、天地左右が収まるべき所に収まって、
幸せは幸せ、愛は愛、真実は真実に見えるのですから、
全てが変わるのは必然です。
変わる、と言いましても、
正確には、これまで逆さまだった景色が、本来の見え方に戻るだけ、です。
これまで無価値で責め苛む対象だと思い込んでいた自分が、
実は、価値ある尊い存在であったことを思い出し、
尊い存在に相応しい扱いをし始めるだけ、なのです。
逆さまの景色を見て、
幸せを目指しているつもりで、
不幸に向けて歩いていた過去も、
それでも生き抜いた尊い自分に気がつけば、
今ここに至る為の道のりであったことが腑に落ちます。
その道のりは尊い軌跡であったと感じます。
生きづらさを手放すとは、
気づきに至るとは、
抗う先にあるのでは無く、
変化を追いかけるのでも無く、
本来の尊い自分を思い出し、
今ここに至る尊い軌跡を思い出し、
今のありのままの自分を、
すべて無条件に受け容れる先にある、
そう思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム