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虐める人は気づかない

虐める人は、他者を虐める事で、自分が無価値を感じる事から逃れています。

虐める人は、心の奥底では、自分は無価値だ、と思い込んでいます。

それは単なる思い込みに過ぎないのですが、もはや凝り固まって信念の様に強固です。

気がついて、目を逸らさずに見つめれば、単なる思い込みなど払うことは出来るのですが、

虐める人は、他者を使って目を逸らす事を選んだ人です。


家庭内で親が子供を虐めるのが、虐待、です。

家庭から出て、自分に歯向かわない相手を見つけ傷つけたなら、虐め、と呼ばれます。

行われる場所や相手は違いますが、心理的な構造は、虐待も虐めも同じで、冒頭に述べた、
自分は無価値である、という思い込みから目を逸らす為の行為、なのです。


虐待の環境に身を置いた事が無い人には、信じられない事かも知れませんが、

虐待する親も、虐待される子供も、それが虐待である、ということに気がついていない場合が殆どです。

肉体的に子供が青あざだらけであっても、ご飯を与えていなくても、風呂に入れていなくても、
心理的に子供の気持ちを全て無視して、親の感情を押しつけ、親の要求を100%通す日常であっても、

親も子もピンと来ないのです。

そんな親子でも、この情報化社会に生きていますから、

虐待という言葉は勿論知っていますし、
言葉の意味の説明を求められたら、上手に説明出来るかも知れませんが、
自分達が、虐待、被虐待、の当事者だという認識は極めて薄いのです。

言葉は知っていて、言葉の意味も理解しているので、
外部に漏らしてはいけない、という意識は持っています。

だから、虐待の有る家庭には、必ず他言無用の秘密が有ります。

秘密にしなければならない、後ろめたさ、を感じて尚、

親は、大した事では無い、と事態を矮小化して捉えています。
躾けの延長、教育の一環である、と思っています。
自分は愛情深い親だ、と悦に入ってさえいます。

子供は親の支配下に在りますから、親が大した事では無い、と言えば、そう思い、
躾けだ、教育だ、と言えば、自分の為を思って厳しく育ててくれて有り難い、と感謝すらします。

ただ、これはニュアンスが伝わり難いと思うのですが、

意識の上では、述べた様に、親も子もピンと来ていないのですが、無意識の領域では、虐待を知っています。

知っていながら、意識の後ろに追いやって、
親は自分を立派な親だと言い張り、子供は親から人並み以上に愛された、と脅迫的に思い込みます。

そうしないと、親子関係は成り立たないから、です。

親子関係が成り立たないと、親は抱える無価値な思い込みから目を逸らす事が出来ず、

子供は自分は愛されていない、という事実に直面する事になります。
幼い子供にとっては親が全てです。
全てだから、慕います。
それなのに愛されないという真実は、耐え難いのです。

だから親も子も、意識の上では、気がつきません。


家庭内での虐待も、家庭の外での虐めも、心理的な構造は同じです。

ですから虐める人は、それ程酷い事はしていない、と思っている事が大半です。

親しさの表現、じゃれ合いの延長、程度に捉えています。

思ったとして、ちょっとやり過ぎかな?ぐらいな感覚です。

家庭内での虐待と違うのは、

虐待の場合は、生まれてから直ぐに始まり、毎日繰り返され、親子の力関係は圧倒的に親優位であり、家庭という極めて閉じられた場所が舞台であり、

この、

早期から始まる、
永続的、反復的である、
固定的に親優位の関係性である、
閉鎖的である、

といった条件が揃っているので、虐待は虐めより、濃い、と言えるでしょう。

虐めは、人生の早期から始まった場合でも、生まれて直ぐ、ではありません。
永続性、反復性も家庭の方がより強いのです。
虐める方が固定的に優位な立ち位置であっても、赤ん坊とその親程ではありません。
閉鎖的に秘密裏に虐めが行なわれても、家庭内の方がより人目につきません。

その意味で、濃淡で表すなら、虐待よりも各要素が全体的に少しずつ薄くなる方向性にあるとも言えますが、

虐めの方が、虐める人数が多く、多対個、の状況に陥り易かったり、
家庭程の閉鎖性が無いからこそ、多人数の面前で辱めを受ける事になり易い、という、虐め独自の残酷性もあります。

各要素に出っ張りや、凹みはあっても、おしなべて、濃淡で表すなら、虐待が濃く、虐めは少し薄まっている、と思います。

虐待が濃いのは、生まれたその時には虐待が始まる、という事が最大の要因だと思います。

それは、洗脳、であり、コアなプログラムの書き換え、だからです。

自分が抱える生きづらさに気がついた人が、虐待について親にも解って欲しい、と言う事は珍しくありません。

自分が虐待の事実に気がついたのだから、親だって解かる筈、と考えます。

しかし、その望みは、殆どが叶う事は無い、と思った方がよい、と思っています。

何故なら、虐待する親は、自分は無価値である、という思い込みから、目を逸らす為に虐待に至ったのです。

つまり、自分が痛みを感じたくなくて、子供を傷つける選択をしたのです。

激しい痛みを感じ続けた子供は、痛みから逃れる決意を固め、他者を傷つける方法を取らず、

生きづらさを手放す為に、自分と向き合い、虐待の事実が見える様になりました。

真実を見据えるには、当人の決意が必要です。

親は、子供に寄りかかっていれば、痛みを感じる事はありませんから、決意を固めるよりも、これまで通りに、子供を使って痛みを回避したいのです。


濃淡は有るにしても、虐めた同級生も、心理的な構造は、虐待する親と同じです。

虐められた方は何十年でも覚えていますが、虐めた方は、明日には忘れています。


生きづらさに気がついたなら、気づいたその事が既に偉業と言えます。

その尊い気づきは、自分と向き合う原動力にして欲しいのです。

親に理解を求めたり、かつて虐めた人に執着する為にエネルギーを使って欲しくはありません。

親子関係や取り巻く人間関係が、将来的に何らかの変化を見る事があったにしても、

それは、生きづらさを手放した結果、訪れる変化であり、今、求めるものでは無いのです。

生きづらさを手放す決意を固めたなら、

今すべき事は、

自分と向き合うこと、なのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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