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もともとの意味とは違った使われ方をしている言葉は沢山あります。
言葉は、生き物、であり、人々が使う内に、最初に意味したものと、違うカタチで広く世間に浸透し、やがてその、違うカタチ、が本来の意味を凌駕して、正しい意味になってしまう事はよくある事です。
言葉とは、そういうものだと思っていますから、それが好ましく無い、と言っている訳ではありません。
インターネットが普及して、誰もが動画や画像や文章を世界に向けて発信出来る様になりました。
少し前までは、世に出回る情報の大半は、テレビ、ラジオ、新聞、書籍、等に限られていて、
誰もが手軽に気軽に発信出来る様な環境ではありませんでした。
誰もが情報発信出来る環境が整って世の中の情報量は爆発的に増加、
情報が走るスピードたるや、瞬間、です。
物事には良い面、悪い面が必ず有りますが、インターネットの普及は人類史に於いて革命的、画期的な出来事だと感じております。
冒頭述べました、言葉の意味の変化、も以前とは比べるまでも無く、とてつもなく速い、と感じています。
ここ最近でも、本来の意味と違った使われ方をしている言葉は沢山見つける事が出来ます。
たとえば、「言動」という言葉の使われ方です。
本来の意味は、言葉と行動、という意味です。
発言と行為、です。
ところが、近頃では多くの人が、
言動=発言、行動=行為、と思っている様です。
「言動と行動には責任を持ちましょう」
といった様な使い方をしています。
本来の使い方をするならば、
「言動には責任を持ちましょう」です。
最初は、一般の方がインターネット上に挙げた動画や文章に散見される程度、だったのですが、
今では、タレントなどの有名人はもとより、言葉のプロであろうジャーナリストやアナウンサー、学者、政治家、までもが、「言動や行動」と言っているのを目に耳にします。
「延々と」と言うのが本来の使い方なのに「永遠と」と言う人が多いのも同様の事です。
そんな事は些末な事だ、と思う方も多いとは思いますが、
形の無い、心のこと、を発信する上で、言語化する事が、とても重要だと考えています。
私自身、言葉を間違える事は幾らでも有りますが、
言葉を出来るだけ大切にしたい、と思っています。
とは言え、言葉の意味は世につれて変化しますから、
頑なに一人、流れに抗っても仕方が無いので、個人的には違和感を覚えながらも、受け容れざるを得ない場合も多々あります。
たとえば、破天荒、と言う言葉は本来、前代未聞とほぼ同義語であり、巷で定着している、豪快で大胆、型破りな様、を表す言葉ではありません。
割愛、は、惜しいと思うものを思い切って手放す事であり、重要では無いから省く事、ではありません。
姑息、は、その場しのぎの意味であり、卑怯と同義ではありません。
他にも、
琴線に触れる、気の置けない、といった言葉も、本来の意味とは、異なった使い方をされる場合が少なく無い様に思います。
まだまだ沢山の、言葉の使い方、に違和感を覚えながら、それでも受け容れる場合もありますが、
先にも触れた様に、心のこと、を言葉に落とし込む上で、
どの言葉の意味について受け容れを抗い、
どの言葉については受け容れるのか、というさじ加減は、なかなか難しいと感じています。
はじめに例として挙げた、言動、などは、私が最初に違和感を覚えてから、メディアのコメンテーターなどが、本来の意味と異なる使い方をするに至るまでのスピードが余りにも速く、
未だ消化し切れない状態にあり、そんな中、自身の記事中に、言動、という言葉を使う機会が重なったので、
今回、記事にするに至りました。
多くの著名人が、その言葉のもともとの意味と異なる使い方をする様になる事が、ある種の既成事実となって、
言葉の意味が変化するのかも知れません。
「逆鱗に触れる」と言うべき場面で、「琴線に触れる」と言う人が多い事などには、違和感しか無いのですが、
世の流れを見ながら、
抗うばかりに偏らず、
受け容れるばかりに固執せず、
伝わり易い言葉を使って、
必要とする人に、必要なタイミングで、
必要な事を届けたい、と思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム