言うまでもありませんが、喜怒哀楽は感情の代表選手です。
その喜怒と哀楽の間に「/」を入れたのは何故だか解りますでしょうか?
ポジティブ感情とネガティブ感情?
違います。
この四感情をポジティブ感情とネガティブ感情に分けるなら、
ポジティブ感情は「喜と楽」で、ネガティブ感情は「怒と哀」です。
「/」の意味は、機能不全家庭でよく使われる感情と、無視される感情を分けました。
本来、感情は次々に刻々と湧き上がるものであって、喜怒哀楽もまんべんなく使われて然るべきです。
しかし、機能不全家庭に於いては、偏った、特定の感情ばかりが幅を利かせ、一方で殆ど無視される感情があります。
よく使われる感情が「喜と怒」、
殆ど無視される感情が「哀と楽」です。
そして、「喜と怒」は、色の濃淡に見立てたら濃い感情、ビビッドです。
「哀と楽」は淡い感情、優しいパステル調と言えます。
機能不全家庭の親は、親自身も機能不全家庭に生まれ育ちました。
感情を否定され、存在を拒絶され、親の顔色を伺って生きた幼少期があります。
その結果、生きづらさを抱えて生きる様になりました。
機能不全家庭の親は、生きづらさから目を逸らす事が生きる目的になっています。
だから、我が子の感情など目に入りません。
我が子の心情を思いやる事は無い、のです。
対外的によく出来た子供であってくれたら、優秀なお子さんの親御さん、として、世間から羨まれるから、子供の尻を叩きます。
そこに、子供の好き嫌いや適性は意味を持ちません。
ただ世間から立派な親だと褒められたいのです。
褒められたいから子供に、もっともっと、と際限なく求めます。
貪欲な親の高い要求に子供は疲弊し、応えられない事も多々あります。
そうなると、今度は子供を責め立てます。
どうして出来ない、どうして頑張れない、と責め立てます。
子供が高い期待に応えれば、世間から羨まれ、その親の幼稚な願望は叶い、親は生きづらさから目を逸らす事が出来ます。
子供が高い期待に応えなければ、子供を責め、口で、態度で子供を貶めます。
子を貶める事で、相対的に自分の価値が上がったかの様に、その親は錯覚します。
錯覚している限り、親は生きづらさから目を逸らす事が出来ます。
子供が親の要求に応える事が出来ても、出来なくても、親は子供の感情を蔑ろにする事で、抱える生きづらさから目を逸らし、
子供は徹頭徹尾、自分の感情を無視して親の要求に応えます。
機能不全家庭は、子供の感情を無視する事で成り立っています。
親は、尻を叩いた子供が、優秀な子供として世間から評価された時、幼稚な願望が叶ったその場限りの「喜び」を感じます。
それによって抱える無価値感から、そのときだけは目を逸らす事が出来ます。
子供の感情は無視です。
尻を叩いた子供が親の望む成果を挙げられなかった時、言葉で態度で無言の圧で、子供を責め、子供の価値を貶めます。
言葉であれ、態度であれ、圧であれ、ぶつける感情は「怒り」です。
子供の価値を下げる事で相対的に自分の価値が上がったかの様に錯覚し、親は抱える生きづらさから目を逸らし、あろうことかその場限りの「喜び」を感じます。
子供の心情は無視されます。
子供はもはや心理的に、親に呑み込まれていますから、自分の感情が湧き上がるや否や、無視して親の顔色を伺い、親の要求を察知し、親の感情を優先します。
その際その子は、自分の感情を無視する事が「哀しい」筈です。
無視して自分の要求ばかりを押し付ける親に「怒り」を感じているのです。
しかし、親に呑み込まれているその子は、「哀しみ」を無視し、同時に親に対する「怒り」を封印します。
機能不全家庭は、親はそれを表し、子はそれを無視しますが、双方共に「怒り」の感情を持っています。
今日だけ、今だけ、といった事では無く、機能不全家庭には、親と子の「怒り」が満ちています。
親は、自分の要求が通り、願望が叶った時、「喜び」を感じ、親に呑み込まれている子供は、親の「喜び」を自分のものであるかの様に感じます。
機能不全家庭の親は、得てして子供が「楽しい」感情を持つ事を嫌います。
「楽しい」という感情は、大変エネルギーが強い感情です。
子供が「楽しい」と思うという事は、子供が親の支配から離れ、自分の人生を生きる様な気が、その親はするのです。
子供が自分の人生から出て行く、親を裏切る気がして、子供から「楽しい」という感情を取り上げます。
機能不全家庭で使われる感情は、「喜と怒」、無視され抑え込まれる感情が「哀と楽」です。
そんな環境で育った人は、ビビッドな「喜と怒」で生きる人が沢山いる様に思っています。
感情を無視したり、抑え込んだりする環境で育ったのですから、無理からぬ事です。
湧き上がる感情をすくい上げる事が極端に苦手で、言ってみれば大雑把な感情で生きている様に感じます。
たとえば、生きづらい人で、「哀しい」と「寂しい」の区別がつかない人は実に多いのです。
ペットが不幸にも亡くなってしまった時、自分の感情は「哀しい」のか「寂しい」のかが分からない、ということです。
繊細なパステル調の感情をすくい取れないので、ビビッドな「喜び」と「怒り」ばかりをすくい取ります。
自分の育った環境には、一瞬の「喜び」はあっても、もっと緩やかな、でも温かな「楽しさ」はあっただろうか。
「楽しさ」を感じる事に何故か、後ろめたさ、を感じる親子関係では無かったか。
自分の育った親子関係に、「哀しみ」を表す事がはばかられる空気は無かったか。
そこは「怒り」に満ちた場所では無かったか。
微かな、心の機微から、
感情を追ってみて欲しく思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム