見出し画像

お客様気分で生涯を終える人

人生に満足する方法は、自分の人生をどこまで当事者意識を持って捉える事が出来るか、にかかっている様に思うのです。

どこまで自分の人生にコミットするか、ということです。

それが、今を生きる、ということであり、未来を見据えることでもあり、足るを知る、ことにも繋がると思っています。

人生を活き活きと生きるには、
人生を軽やかに歩むには、

これは、誰のものでも無い自分の人生だ、と腹の底から思える事が、全てと言っても構わない様に思います。


人生を他人事の様に眺める人が居ます。

俯瞰して見るとか、達観するという事とは、全く違って、

自分の人生に参加出来ない人が居ます。

参加出来ないのですから、まるで傍観者の立ち位置です。

傍観者で居る限り、疎外感に苛まれます。

参加しないから、傍観しているからといって、楽なのか、というと、そうではなく、とても苦しいのです。


その人が、人生に参加出来ないのには理由があります。

禁じられたのです。

その人が自分として、自分の人生を歩んでは困る人が居たのです。

それは、その人の親です。


親は心に重大な生きづらさを抱えた人です。

生きづらさの核は、自分は無価値だ、という思い込みです。

そのままの自分に価値を感じる事が出来ない親は、他者を使って価値を感じようとします。

たとえば、他者から誉められたり、羨ましく思われたり、一目置かれたりする事を脅迫的に求めます。

たとえば自分より弱い他者、劣った他者を蔑む事で、相対的に自分の価値が上がった様に錯覚します。

そのままの自分には価値を見い出せないので、他者を使う訳です。

しかし現実には、そうそう自分を誉めそやす他者は現れませんし、

都合良く、自分よりも明らかに弱い存在が見つかる訳でもありません。

唯一、望みを叶えてくれる存在が、我が子、です。

子供は親を慕います。

この世に生まれ落ちた小さな生命は余りにも無力です。

その小さな生命は親を慕い抜く事で生きる仕組みになっています。


重大な生きづらさを抱えた親は、その仕組みを利用します。

本来は親が、慕う子供を愛おしく感じ育む、
そこまでが、親子関係の仕組み、なのですが、
その親の目には、慕う我が子の姿が、愛おしい存在には映りません。

どう利用しても構わない、絶対服従の存在、に見えるのです。

だから、育む、のではなく、自分が抱える重大な生きづらさから目を逸らす為の道具、として、便利に使います。

先に触れました様に、重大な生きづらさを抱える人は、

他者からの賞賛や受け容れを脅迫的に欲します。

その望みは、子供が叶えてくれます。

子は親を慕う仕組みになっていますから、自分を受け容れますし、
「お母さん大好き」とも「お父さんスゴい」とも言ってくれます。

もっと賞賛が欲しければ、子供の尻を叩けば、親の要求に応えようと、子供は無理をしてでも頑張ります。
親の要求通りに、賢い子、強い子、明るい子、優しい子、になろうとします。
その子供の頑張りを見て、親は自分の要求通りに動く子供の姿に、先ず支配欲を満足させます。

子供の頑張りが功を奏して、テストで良い点を取ったり、習い事の発表会で注目をさらったりすれば、優れた子の親として、自分が賞賛されていると感じる事が出来ます。

子供が、良い点も、注目をさらう事も出来なかったなら、「どうして出来ないんだ」と、子供を蔑み、責め立てる事で、価値を貶め、相対的に自分の価値が上がった様に錯覚する事が出来ます。

重大な生きづらさを抱える親にとって子供は、賞賛を得る事、自分の価値を上げる事、を叶える便利な、魔法の道具です。


親が、望みを叶える魔法の道具として、子供を便利に使うには、

子供が、自分に目覚めて、自分の人生を歩まれては困るのです。

親に呑み込まれて、親の人生の中で、便利な魔法の道具であり続ける必要があるのです。

だから子供に、自分として自分の人生を歩む事を禁じたのです。


親に呑み込まれ、親の人生の中で、便利な魔法の道具にされた人は、

当然ながら、自分の人生が上の空になります。

自分の人生の筈なのに、現実感が乏しいのです。

当事者意識が持てず、人生が他人事に思えます。

たとえば、何かに没頭し、人生を切り拓こうとする他者を見て、
没頭する事など見つける事が出来ない自分を、ダメな奴だ、と内心責めながら、
人生を切り拓こうとする人を、批難したりします。

社会に出るという卒業シーズンに、進路を決めて、張り切っている友達を見て、
「さっさと自分だけ決めてズルい」と思ったりします。

親に呑み込まれた人は、好き、嫌い、これをしたい、これはしたくない、が無いのです。

幼い頃から突きつけられ続けた、親の要求は無責任に高いのです。

親の要求に応えるだけで精一杯で、自分の感情には無頓着で、自分の人生にどうしても関心が薄いのです。

自分の人生に当事者意識が無く、お客様気分なのです。

お客様だからと言って、楽な気分には到底なれません。
人生は自分で切り拓くもの、だとは知りながら、それでもどうしても他人事に思えてしまう事に苦しみます。

苦しみながら、生涯をお客様で過ごす人は少なくありません。

苦しくても、慣れ親しんだ世界に身を置く事を選ぶ人は沢山居ます。

どう生きるのか、という事に、善悪、正誤、優劣は無く、その人の自由です。


もしも、自分の人生にコミットしたい、と思うならば、

自分として、自分の人生を歩む覚悟を固める事が必要です。

親の、禁、を解くのです。

自分と向き合い、

好き、嫌い、したい、したくない、を感じるところから始めて、

人生の主役になる覚悟を固めて行きます。

覚悟を固めたら、その時から、

苦しみは軽やかさに変わります。

自分の人生が始まります。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?