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気づきをくれた子、気づいた母

「私は毒親でしょうか?」

そう言われるお母さんは、とても多いのです。

私は、毒親、という言葉を好んでは使わないのですが、実際、「毒親でしょうか?」と尋ねられるお母さんが少なく無いので今記事では、そのまま使います。

結論から言いますと、自分が毒親かも知れない、という視点を持っている時点で、そのお母さんは毒親ではありません。

毒親と呼ばれる親は、自分を愛情深い親だと、設定、しないと自分を保てないのです。

だから本当の毒親は、自分が毒親かも知れないという視点を持つ事が出来ません。

自分が子供を利用しているとも、自分が子供を傷つけているとも自覚する事がありません。

設定通り、自分は愛情深い親であり、子供の為だけを思っている、と決めつけて生きています。


毒親と呼ばれる親は、自分には価値が無い、という思い込みに苛まれる人です。

しかし、自分の内側から湧き上がる無価値感が余りにも強くて、それを直視する事が出来ない為、

自分は愛情深い親だと設定してしまいます。

親子関係は、その設定ありきの親子関係になります。

子供を利用しながら、子供の為を思っている、と認識します。

自分の為なのに、子供の為を思っている、と信じて疑いません。

優しく抱きしめて頭を撫ででいるつもりで、しがみついて叩きます。

惜しみ無く与えているつもりで、限り無く奪うのです。


毒親かも知れない、そう思った瞬間、ハッとしたと思います。

断言しますが、その視点を持てた親は毒親では無いのです。

確かに、そのお母さんは、生きづらさを抱えているのでしょう。

生きづらさを手放す行程は、気づきの連続です。

ハッとした瞬間に、大きな気づきを一つ迎えた、と言えます。

生きづらい人が母になる時は、分岐点です。

生きづらさと対峙して、健やかな母子関係に舵を切るのか、
我が子を生きづらさから目を逸らす道具にしてしまうのか、

選択の時です。


幼い子供は徹底的に無力な存在です。
親が居なければ生きる事が出来ません。

そんな無力な幼い子供は、親を慕って慕って慕い尽くす仕立てになっています。

情緒が親になるに相応しい程度まで成熟している親であれば、自分を慕って止まない我が子の姿は、掛け値なしに愛おしいのです。

しかし、無価値感に苛まれる親は、慕って止まない我が子の姿を、絶対服従の構えを崩さない、自分の所有物と認識してしまいます。

抱える生きづらさ故の、自分の中の認め難い感情の数々は、子供が持っている感情、という事にしてしまいます。

自分が不安になっているのに、子供が不安になっている、と認識します。

自分が苛立っているのに、子供が苛立っている、と感じます。

自分が弱虫なのに、子供が弱虫に見えてしまいますし、
自分が優しく無いのに、子供が優しく無い、と捉えます。

投影という心理的なメカニズムです。

自分が認めたく無い自分の気持ちを、他者の気持ち、と解釈する心理的メカニズムです。

「ごめんなさいって言いなさい!」と子供を責め立てて、子供が、ごめんなさい、と言うと、
「悪いなんて思っていないのに口先だけで謝ればいいと思っているねっ!」と子供の気持ちを決めつけます。

本当は、正当化したいのも、非を認める事が出来ないのも、心にも無い事を口にするのも、自分なのですが、

その認め難い、後ろめたい自分の感情を子供が持っている感情だと決めつけます。

それが、投影、です。


その親は、徹底的に自分は無価値だ、と思い込んでいます。

自分に絶望しています。

もう少しも、自分の非を認められないぐらいまで、心は無価値感でいっぱいなのです。

自分は意気地が無い、自分は嘘つきだ、自分は優しく無い、
そういった決して認めたく無い感情を、子供が持っている感情だと解釈します。

つまり、自分の無価値感を子供にそっくり背負わせます。

自分には非が無い、と思い込みます。


そこまで無価値感に追い込まれていて、少しの非も認められないのですから、

その親は、自分が毒親かも知れない、といった心境には、決してならないのです。


生きづらさを抱えて、親になるのは大変な事だと思います。

とりわけ母親の子育ては、逃げ場も無ければ、待った無し、です。

生きづらさ故に、苛立ちや怒りを我が子にぶつけてしまう事もあるでしょう。

しかし、そこで、自分は毒親なのだろうか、という視点を持つ事が出来たお母さんは、毒親ではありません。

そして、その視点を持つきっかけをくれたのは、お子さんです。

今は、怒りや苛立ちをぶつけてしまい、お子さんを傷つける事があったとしても、

気づいたのですから、生きづらさを手放して、健やかな親子関係を創り出す事は必ず出来ます。

親が自身の生きづらさを手放す事が、

健やかな親子関係を築く事であり、

お子さんを愛する事なのです。


気づきをくれたお子さんは、

なんと尊いことか、

気づいた母は、

なんと尊いことか、

健やかな親子関係を築くチャンスを、

活かして欲しく思うのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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