あんなに愛された筈なのに
「私は虐待された事はありません。逆に、親は愛情深くて、昔からひどく過保護なのが悩みの種なんです。いい加減子離れして欲しいです。」
これは以前、ご自身が抱える生きづらさに気が付いて、私を訪ねて下さった三十代女性のAさんが、初回カウセリングの際、話してくれた事、です。
Aさんは真っ直ぐに自分と向き合われ、生きづらさを手放すに至ったのですが、後に「愛されていた」という思いにしがみついていた事が、
永く生きづらさを手放す事が叶わなかった最大の理由だと仰っていました。
尚、この件を記事の題材にする事は、ご本人に承諾を得ています。
Aさんは、
虐待された事は無く、「逆に」愛情深いが故に親は、過保護だ、と言うのですが、
虐待と過保護が、逆の事、だと思っています。
しかし、過保護や過干渉は、虐待です。
子供に手を挙げたり、怒鳴ったりする事ばかりが虐待ではありません。
むしろ、直接的にダメージを与える肉体的虐待よりも、過保護や過干渉、或いは無関心、といった、心理的虐待の方が、
生きづらさを手放す際には、大きな障壁になる様にすら感じています。
勿論、肉体的虐待を受けた子供の、心の傷の深さは、測り知れません。
ただ、肉体的虐待の場合は直接的に子供に恐怖心を植え付けて支配する意味合いが強い為、
肉体的虐待を受けた子供は、恐怖と共に、親に対する怒りを感じます。
最終的には、怒りを抑え込んでしまう程の強い恐怖が勝り、親に心を支配されてしまうのですが、
それでも、後に生きづらさに気が付いて、生きづらさを手放したい、と願う様になった時、
幼い頃には、一旦、恐怖によって抑え込まれてしまった怒りの感情が、真実に辿り着く手がかりになる事がしばしば有ります。
ところが、親から手を挙げられた事が無いのは勿論の事、一度たりとも怒鳴られた事も無い、という人で、
それでも生きづらさを抱えて苦しんでいる場合、
先ず、自分が抱える生きづらさと虐待が結びつきません。
自分は虐待とは縁が無い、と思い込んでいます。
その意味では、肉体的虐待は子供を押さえつけて支配する側面が強く、
心理的虐待は子供を騙して支配する側面が強い、と思っています。
心理的虐待を受ける子供は、言ってみれば、生まれた時から、騙されたまま育った、ということになります。
騙されているのですから、肉体的虐待を受ける場合の様に、激しい恐怖や怒りを覚える事が無いままに、親から支配されます。
心理的虐待に晒されて生きた人は、「自分は人並み以上に愛されて育った。」と口を揃えて言います。
人並み以上に愛されて育ったのに、何故か生きづらくなってしまった自分は情けない、と自分を責め、
「愛してくれた親に申し訳ない」と言います。
肉体的、もしくは、直接的な否定や拒絶をぶつけられ、恐怖によって支配されたのならば、
生きづらさを手放す為に心を辿る局面では、心の奥にしまい込んだ、怒りの感情、が真実を知る為の目印になりますが、
心理的な虐待の場合は、騙されて搾取されるのですから、目印になるものが無いのです。
肉体的虐待は、被虐待児にとっては受けるダメージは、破壊的ですが、破壊的なだけに、目印は見つけ易い様に思います。
心理的虐待は、一時に受けるダメージは少ないですが、真綿で長い時間をかけて締め上げる様に、子供から確実に生きる意欲を奪い取ります。
とてつもなく苦しいのに、幼児期に思い当たる辛い経験が無い場合、
中学生の頃にあった出来事の記憶を、半ば無意識に改ざんして、
この中学時代の辛い出来事が、自分の生きづらさの原因だ、と決めてかかる場合が多々有ります。
けれども実際は、中学時代の辛い経験は、ひとつの、きっかけ、に過ぎず、
掘り下げてみると、やはり幼児期に生きづらさの原因を見つけるのが大半です。
過保護、過干渉、無関心、などは、
心理的虐待です。
虐待には縁が無い、充分に愛されて育った、と感じているのに、
そうやって育った結果、今どうなっているでしょうか。
愛されて育った人は、
生きづらさを抱えません。
重々しい気分に苛まれません。
砂を噛む様な虚しさに沈みません。
生きる意欲を失いません。
愛してくれた親に申し訳ない、とは思いません。
愛してくれた親に申し訳ない、と感じてしまうのは、
愛を与えられたら、何かを返さなくてはならない、という
条件付きの愛情に基づいた感じ方です。
本当に充分な愛情を注がれた人は、
親に対して引け目を感じる事がありません。
何故なら、充分に注がれた愛情は、
無条件の受け容れであるから、です。
今、生きづらいのであれば、
今の苦しさから辿って、紐解いて、
真実を見つけて欲しく思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム