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自分の苦しさこそが、
自分の重々しい気分こそが、
生きづらさ、なのだと気がついて、
その生きづらさを手放す決意を固めた人は、
様々な、心のこと、にまつわる情報に触れます。
そして、
気づき、に向かう為に自分と向き合うんだな、
と漠然とした道筋を、曖昧な目的地に向けて歩き出します。
最初は漠然としていても、歩みを進めるうちに、段々、道筋がはっきりと見えて来て、向かうべき場所が鮮やかに浮かび上がることも有ると思います。
しかし、目的地が曖昧な為に、思わぬ方向に進み、迷いに迷う場合も少なく無い、と感じています。
心には形がありません。
そして心は、人が十人いれば十通り、百人いれば百通りです。
二つと同じ心は無い訳です。
だから、私が思っていることが全て正しい、と思っている訳ではありませんが、
生きづらさに気がついて、生きづらさを手放す決意を固めて、自分と向き合い始めた人が、
向かうべき目的地があまりにも、おぼろげ、であるが為に、足踏みし、回り道に迷い込むことが、とても多い、と感じていますので、
向かうべき目的地つまり、気づき、とは何なのか、について、
私の解釈をお話ししたい、と考えました。
結論から申し上げますと、
気づき、とは、
心の内壁にべったりと貼り付いた、思い込み、が剥がれること、
だと思っています。
優しく無い自分は良くない、
強く無い自分は良くない、
賢く無い自分は良くない、
そんな自分は無価値だ、
無価値な自分なんて許されない、
そんな自分が大嫌いだ、
といった大小様々な、思い込み、を見つけ、剥がすことが、気づく、という事だと私は解釈しています。
大小様々な、思い込み、は、
その殆どが、いわれの無いもの、なのです。
もともと、価値の無い生命、など一つも無い、と私は思っていて、
その大前提に立てば、無価値だ、という大きな、思い込み、は、いわれの無いもの、です。
何故その、いわれの無い、思い込みを心に貼り付けてしまったのでしょうか。
それは、余程のレアケースを除いては、幼少期の親子関係に原因があります。
赤ん坊は皆、希望の光りに包まれた存在です。
生まれた時から、自分という存在に疑問を持ち、世を儚んで、絶望している者など居ないのです。
そうやって希望の光りに包まれていた存在がどうして、其処に存在しているだけで申し訳無い、といった様な、無価値感を感じてしまう様になるのでしょうか。
それは、親子関係に原因があります。
個々に細かな状況には差異がありますが、幼い子供は一人残らず、希望の光りに包まれた存在です。
其処に影を落とし、光りを鈍らせるのは、親なのです。
光りを鈍らせる親は、親自身が心に重大な、無価値な思い込み、を貼り付けている人です。
親は自分が抱える、無価値な思い込み、から目を逸らす為に、子供を利用します。
直接的に、子供を傷つける言葉をぶつけたり、
間接的に、態度で傷つけたりします。
直接的に傷つける言葉とは、
馬鹿だ、何も出来ない、醜い、弱虫だ、嘘つきだ、等など、星の数あります。
間接的に傷つける態度とは、
無関心、過保護、過干渉、等などです。
無関心は、関心を寄せる程の価値は無い、
過保護は、一人では生きられない、
過干渉は、何も出来ない、
といった破壊的なメッセージを絶え間なく子供に与えます。
幼い頃、子供にとっては、親子関係が世界の全てです。
その状態で、貶める言葉をぶつけられ、
無言の破壊的メッセージを浴びせられ、
子供は心の内壁に、自分は無価値だといういわれの無い、思い込み、をべったりと貼り付けてしまいます。
馬鹿だという小さな、いわれ無き思い込み、を探し剥がすことが、気づくこと、です。
何も出来ないという小さな、いわれ無き思い込み、を探して剥がすことが、気づくこと、なのです。
小さな、思い込み、を探して剥がすうちに大きな、無価値感等の、思い込み、が見つかります。
大小様々な、いわれ無き思い込み、を探して剥がすことが、
気づき、を重ねることだと私は解釈しています。
思い込み、は強固ですが、
剥がせない、思い込み、は有りません。
何故なら、
私達は皆、希望の光りに抱かれて、
この世に生まれ落ちた、
価値有る者、であって、
思い込みは、いわれ無きもの、であり、
単なる、思い込み、に過ぎないからです。
生きづらさを手放す道程は、
もともと希望の光りを纏った存在であることを思い出す道のりです。
その為に、ひとつひとつを拾い上げ、
ひとつひとつを腑に落とし、
目指す目的地は大きな、気づき、
なのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム