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他人とではなく、昨日の自分と比べてみる

子供を生きづらくさせてしまう親は、子供を、誰か、や、何か、と比べます。

たとえば、その子の兄弟と比べます。
たとえば、その子の同級生と比べます。
或いは、その親がイメージする、理想の子供像、と比べます。

「お兄ちゃんは頭がいいのに、お前ときたら…。」とか、
「妹は可愛いのに、お前は…。」とか、
「クラス委員の◯◯君は優秀だねぇ、お前とは大違いだ。」とか、
その子はいつも誰かと比較され、価値が無い、と結論付けられます。

そもそも誰かと比べる親は、その子によく出来たお兄ちゃんや、可愛い妹や、優秀な◯◯君が居なくても、
親の、理想の子供像、とその子を比較します。

そうやって子供を、誰か、何か、と常に比べる親は、比較してはダメ出しをする事を、
励ましている、と都合よく解釈している場合が実に多いのです。

つまりその親は、励ます、という事が出来ません。

何故、励ますこと、が出来ないのか、というと、
励ますには、励ます対象を、思いやる、ことが必要です。

思いやり、を持つには、相手を一人の人として、尊重、する事が不可欠です。

相手を尊重するには、自分は自分であり、相手は相手である、という様に、心理的に切り分ける事が求められます。


子供を励ますことが出来ない親は、
子供を思いやる事も、
子供を尊重する事も、
出来ません。

どうしてでしょうか?

その親は、見た目が立派な大人でも、
傍目には、ちゃんとした親であっても、
心が育っておらず、情緒は幼児のまま、なのです。

幼児は、自分と他者の感情を分ける、心理的境界線が曖昧です。

自分は自分、他者は他者、という当たり前の切り分けが出来ないならば、

そこには、尊重も、思いやりも存在し得ないのです。

尊重する事、思いやる事が無い世界は極めて、独りよがりな世界、と言う事が出来ます。

「いや、人を尊重する子供、思いやりに溢れている子供は沢山居る」
と仰る方も居られる事と思います。

しかし、自分と他者の心理的な切り分けが出来ていないのに、
他者を尊重する事は出来ません。
尊重しようにも、自他の感情の境界線が曖昧なままでは、尊重すべき他者、の姿は浮かび上がらないのです。

思いやろうにも、自他の感情を切り分けない限り、他者を思いやる事は出来ません。
思いやるべき他者の姿は浮かび上がりません。

心が成長し、確固たる【自分】が育ち、自他の感情を分ける心理的境界線がくっきりと引かれ、
自分は自分、他者は他者、と明確に認識する事が出来て初めて、
自分の輪郭が明確になり、それと同時に他者の姿が浮かび上がります。

そうなって初めて、尊重する事が出来、思いやる事も出来るのです。

幼い子供が、他者を尊重している様に見えたとしても、思いやりに溢れている様に見えたとしても、
その感情の主成分は、慕う、気持ちです。
思慕の情、なのです。

その主成分である、思慕の情、に、様々な諸成分が加わって、尊重や思いやりの体をなして現れます。

幼い子供のその様な感情は、とてもいじらしく、尊いと思いますが、本当の意味の、尊重、や、思いやり、とは違ったもの、です。

幼く未だ、自他の感情を分ける心理的境界線、が曖昧である限り、
自分と他者の感情が混ざり合って感じられる為、
幼い子供が見ている世界は、自分がある様で無い、相手が居る様で居ない世界、なのです。

この世に生まれ落ち、へその緒が切れたその時に、肉体は母親から離れますが、
心が母親から離れるのは、ずっと後のことです。

乳児期から幼少期にかけて、親から受け容れられる体験を積み重ねる中で、その子は自分の存在に対する安心感を得ます。

その安心感に包まれて、その子の心には、確かな【自分】という意識、が育ち、自他の感情を分ける心理的境界線、が引かれます。

そうなって初めて、思慕の情、とは違った、本当の意味での、尊重する心、や、思いやる心、が芽生えます。


先に触れた、誰かや何かや理想の子供像、と比較する親は、子供に安心感を与える事が出来ません。

安心感を与えられない子供の心は育たず、その子は【自分】が無く、心理的境界線が曖昧な人になります。

年齢を重ね大人になって、親元を離れ、結婚して家庭を持っても、

その人は、他者を尊重する事も、思いやる事も出来ないまま、です。

見た目には大人でも、心は幼いままで、自他の感情を切り分けられず、独りよがりな世界、に生きているから、です。

親の、独りよがりの世界、に呑み込まれて生きざるを得なかった人は、図らずも、独りよがりの世界、の住人になります。

現れ方は様々です。
他者を思いやれない自分、に苦しみ自分を徹底的に責める人、
他者を思いやれないが故に、思いやりに溢れる人であるかの様に振る舞う人…、
色んな現れ方をしますが、
共通して言えるのは、自覚は無いかも知れませんが、
皆、強迫的に誰かと比べる人、であり、生きづらい人、であるという事です。


生まれた時から、誰かや何かや、親の理想の子供像、と比べられて生きて来て、
比べる事にしか基準が無いのですから、無理も無い話しです。

根本的には、確かな【自分】という意識、を育て、自他の感情を分ける心理的境界線を明確にする事が、生きづらさを手放す事だと考えますが、

直ぐにでも出来る事として、
比べる癖があることを自覚し、それを止める事から始めて欲しいのです。

そもそも、比べてダメ出ししたのは、情緒未成熟で、比べる事だけが基準の、親、です。

言わば、幼稚な価値基準で測られ、言われ無き無価値感を擦り込まれた事自体が間違いだったのです。

それでも今日まで生き抜いて、
それでもより良く生きようとする人が、
無価値である訳が無いのです。


染みついた、比べる癖、は、なかなか手放し難いかも知れません。

ならば取っ掛かりとして、先ずは、
他者と比べる事、何かと比べる事、理想像と比べる事、をお休みして、

昨日の自分、と比べる様に努めて欲しいのです。

比べられて生きて来た人は、自分を責める癖がついています。
今日まで生き抜き、より良く生きようとする自分の尊さを見ようとはしません。

昨日の自分、よりも、成長した自分、を探してみて欲しいのです。

どんな小さな事でも構いません。

昨日より成長した自分を見つけられない、そんな自分を「ま、いいか」と許せる様になった大らかな自分、を見つけるだけでも構わないのです。

小さな成長を重ねる度に、

自分を好きになります。

小さな成長を見つける度に、

自分の尊さに気がつきます。

重ねて、見つけるうちに、

生きづらさは溶け始めます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム

















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