見出し画像

自分と自己像とリミッター

とても伝わり辛いお話しをします。

心の中の、確固たる【自分】、と、自己像、のお話しです。


心の中に、確固たる【自分】、が育っていない人は、自己像、がボヤけています。

私はこんな人だ、という、自己像、です。

確固たる【自分】、が無いのですから、自己像、が曖昧なのは仕方がない事、と言えます。


自己像なんか無くていい、
自己像とは、自分の無限の可能性を制限するだけのものでしかない、

と主張する若者と以前、出会った事があります。

若者が言わんとする事は、理解出来た、と思っています。

自分はここまでだ、というリミッターが付いた状態が、自己像、だと言っているのだと思います。

しかし自己像は、自分として自分の人生を歩む上で、欠くべかざるものだと思うのです。

心に確固たる【自分】が育っている人は漏れなく、自己像、と言えるものが明確な様に思います。

本人はそれを、強く意識する事はおそらく無いのではないか、と思うのですが、
【自分】が育っている人には、自己像、がある様に思うのです。

勿論その人が思い描く、自己像、が、100%本質と合致している訳では無く、
自己像とは、確固たる【自分】があり、其処に外的な要因が加わる事で絶えずその、像、は変化するもの、だと思っています。
其処には、かくありたい、という思いも混ざり込めば、
外部からの、他者の言葉や働きかけ、や、降りかかる出来事から受け取ったことによって内的な変化が起こる事も影響し、
自己像は刻々と形を変えるもの、だと思うのです。

心の中にあって変わらない、芯、が、確固たる【自分】、ならば、
様々な出来事や、経験、他者の意見、などを取り込み影響を受け、ある程度の柔軟性を持つのが、自己像、である様に思います。
芯を包む柔らかいクッション材のイメージでしょうか。

自己像が何らかの要因によって柔らかさを失ってしまうと、前出の若者が言う様に、
可能性をスポイルするリミッターにもなり得ると思います。

しかし、自己像が本来の柔軟性を備えていれば、外的な圧力に、芯、が直接影響されない為の緩衝材の役割りを果たします。


芯、とも言える、確固たる【自分】は、こと更に人様に見せる必要はありません。
何故なら、心はその人だけの自由な場所であり、他者の承認は必要としないから、です。

しかし、私達はこの物質世界に生まれ、他者と関わり合いながら、物質世界に生きている訳です。

関わり合いの中で他者はこちらの事を、この人はこんな人、と判断、解釈し、それを基に、関係性を築きます。

こちらはこちらで、他者を判断、解釈し、関係性を築きます。

その際に、他者にさらけ出さない、確固たる【自分】、と、物質世界との緩衝材となり、他者が判断、解釈をする上での、主な材料となるのが、自己像、だと言えます。

他者がこちらに抱く人物像と、こちらが描いている自己像とが、必ずしも一致するとは限りませんが、

傾向としては心に、確固たる【自分】が育っている程に、自分が抱く自己像と他者が抱く人物像は、整合性が高まります。

先ず、
確固たる【自分】があり、
【自分】があった上に、自己像、が映し出され、
関わり合う他者は、こちらとの関係性を、この人はこんな人、という、人物像、を元に構築します。

確固たる【自分】と、自己像、が近い程、生き易いでしょうし、
他者が持つ、人物像、と、自分が映す、自己像、も合致している方が人間関係も円滑になるでしょう。

つまり、内面と外側が余りにも乖離していると生きづらくなりますし、
自分が描く、自己像、と、
他者が抱く、人物像、が、
余りにもかけ離れていると、人間関係は円滑に運びません。


心の中の確固たる【自分】が、何らかの要因によって成長する事が出来ないままに、
無理矢理、自己像を作り上げる人もいます。

その場合、中身が無いハリボテの自己像になってしまいますが、
中身が無いだけに、その人はハリボテの自己像に固執し、心の拠り所にします。
これが、柔軟性を欠いた自己像、と言えます。

ハリボテの自己像は、【自分】が無い事を覆い隠す為の、擬似的な自己、になります。
心理学者ユングが提唱した、ペルソナ(仮面)です。

【自分】が無い不確かさ故に、中身の無いハリボテの自己像に、その人は強烈に固執します。

たとえば、自分は賢い、というハリボテの自己像を創り出した人は、賢い自分、を演出し、
自分の賢さを証明する事が、生きる目的、になってしまいます。

現実には、有名大学には届かない自分の学力に焦りを感じていても、それを表に出しません。
余裕で入試を突破して、来春には有名大学のキャンパスを闊歩している、という発言、立ち居振る舞いをしてしまいます。

賢い自分、の演出であり証明なのです。

その証明を続ける限り、素直になれませんし、他者を妬みます。

志望校には入れないかも知れない、という不安を表に出す事が出来ませんし、
模試で合格圏内に居る他人を妬みます。

周りからは最初は、全力で賢い自分をアピールした甲斐あって、
この人は賢いんだな、 
余裕で志望校に合格するんだな、
と思われるかも知れませんが、
そのうちバレます。

一旦バレてしまえば、模試で合格圏内にも居ないのに、口先ばっかりだな、と思われます。
ちっとも賢くないな、と思われます。

周りはその人を扱いづらい、と感じます。
その人は自分を、賢い人、として扱わない周囲を恨み、
模試で好成績を上げた他人を妬みます。


中身の伴わない、自己像、は、幼児的万能感によるところが大きい、と言えます。

空を飛ぶヒーローを見て、自分も変身して空を飛べる、と思い込む幼い子供と同じです。

前出の若者が言う様に、自己像が明確になる事は或る意味、自分にリミッターをかける側面が無いとは言いません。

しかし、健康的な限界、を知る事は、今の自分を知ることに他ならず、今の自分を知ったからこそ、
その殻を打ち破る、という本当の推進力を生み出す事が出来ます。

自己像を明確にして行くことは、自己限定をすること、であり、
自己限定することによって、自分の殻を見つける事が出来、
それを打ち破る気概と推進力を得る事に繋げることが出来るのです。

その自己像は、中身が無ければハリボテになってしまいます。

リミッターは無くすべきもの、では無く、解除するもの、だと思うのです。


自己限定をする事が、

健康的な自己像を明確にする事であり、

自己限定した上で、

限定した自己を突き破ろう、とする事が、

成長、と言えます。

自己限定するには、

確固たる【自分】が、心の中に育っている事が絶対条件です。


【自分】を育て、

自分として、

自分の人生を歩みたい、

そう思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム















いいなと思ったら応援しよう!