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外に敵をつくる心理

外に恣意的に敵を作り出すことは、世の中に多くあります。

大きな事で言えば、国家が外に敵を作り、国民がその敵を憎む事で、一つになる様に仕向けます。

小さな事で言えば、ある人が明らかに自分に非が有る失敗をして、それを誤魔化す為に、外に皆が批難するであろう敵を作ります。

こういった事は、国家なら国家、個人なら個人に、他者に触れられたく無い、或いは自分が触れたくない弱みが有る時に、
外に恣意的に敵を作り出す事で、周囲の注意、或いは自分の意識を、
作り出した敵に向けさせる、言わば、目くらまし、の効果を狙うもの、です。

国が何かしらの重要な法案を通したい時に、人々の注意を引きそうな有名人の大スキャンダルを何故かこぞってメディアが報道し、人々がそれに乗せられている間に、法案がすんなりと通ってしまう事も、

企業がライバルのB社には負けるな、と社員を鼓舞して団結力を高めるのも、

その全てが、目くらまし、とは言いませんが、
国民に気付かれたくない利権や、
社員の同意が得られそうもない会社方針から、
目を逸らす意図が有る場合も少なく無い様に感じています。

目くらましは必ず、得をしたい人が居る時に取られる手法です。
 
私達が暮らす物質世界、とりわけ資本主義の世の中に於いて、得をしたいと思う事は、ある意味自然な事でもあると思います。

その意味では、得をする為の目くらましも、ズルいと賢い、の境い目にあるのかもしれません。

人はともすれば、ネガティブに引き寄せられ易い心理的構造を持っています。

人の、得をしたい、という思いばかりが、まん延すると、人の集合体である国家、企業をはじめとしたあらゆるコミュニティはネガティブな空気に汚染されます。

物質世界に生き、資本主義に暮らすのですから、時に、ズルさも必要かも知れませんが、ズルさは賢さの範疇から逸脱するギリギリのライン上に位置する、ということを見失ってはならない、と思うのです。

見失った時に、ラインを踏み越えダークサイドに堕ちます。
国家なら国家、企業なら企業、様々なコミュニティの空気はその時を境に淀みます。

時に目くらましの手法を使う事もあるでしょうが使うなら、その手法がズルいという事を認識する事が賢さを失わない為に必要な事だと思うのです。

生まれてから一度も嘘をついた事が無い人は居ないと思うのです。
私達が周りに、天使を見かけない由縁です。

人はポジティブの数だけ、ネガティブも持っていますから、正直でもあり、嘘つきでもある訳です。

外に恣意的に敵を作る目くらましも、時として、私達は使う事があるかも知れませんが、

その時には、ズルい事をしているという自覚、が必要です。

その自覚がある限り、賢さに踏み留まり、愚かさの谷底に堕ちることを回避出来ると思うのです。


国家、企業、様々なコミュニティなどの、人の集合体、に限らず、
私達は個人でも、他者に向け、自分自身に向けて、目くらまし、をします。

言い訳、自己正当化、責任転嫁などが其れに当たります。

目くらましを多用する事は、自分自身を見失う危険性をはらみます。

電車が遅延したから遅刻した、
電車、が目くらましの為に作り出した敵です。

仕事が忙しくて出来なかった、
仕事、が敵です。

弟がやった、
弟、が敵なのです。

外に敵を作る事は、最も労力を要さない回避方法です。

楽なだけに、味を占めると、繰り返してしまう常習性があります。

人はネガティブに引かれ易い上に、常習性が強いと、生きる姿勢そのものが、回避的になってしまいます。

人生を自由に生きる、ということは、人生全ての責任を負う、ということです。

生き方が回避的になる事で得られる健康的な満足はほぼ無い、と思います。


機能不全家庭に於ける親子関係は、親が外に恣意的に敵を作り出す事に中毒になっています。

日常的に、お前のここがなっていない、あそこが足りていない、そこがダメだ、と我が子を責め立てます。
その時は、敵は子供です。
子供が悪くて、自分には非は無い、と責任を負う事を回避しています。

幼い子供は親から責められたら、自分が悪い、と思い込みますから、その親からしてみれば、責任を回避する為にはうってつけの存在なのです。

機能不全家庭の親は、責任を回避する生き方に中毒になっていますから、世の中のあらゆる事に不満であり、
世の中のあらゆる人が敵である世界に生きています。

しかし都合良く、敵だけれども反撃しない従順な人、などそうは見つかりませんから、我が子が最高の道具である事に行き着いてしまいます。

誤解を恐れずにお話しすると、

学校の虐めを苦に、自ら若い生命に終止符を打ったお子さんのご両親が、学校等を相手取って訴訟を起こし、メディアからのインタビューを受け、涙ながらに、

「〇〇は明るくて思いやりのある子でした、親にも苦しんでいる事など少しも話さず、一人で抱え込んでいたかと思うと…。」
といった訴えを目に耳にすると、
もしかすると、その子は親に明るさしか見せてはならない、と思い込んでいたのではないか、
一人で抱え込まなければならない環境に育ったという事は無いだろうか、といった思いが過ぎります。

時折報道されるこういった痛ましい事件の全てがそうだ、と言っているのでは勿論ありませんし、

ご両親も、筆舌に尽くし難い悲しみに直面されているのは承知しているのですが、

明るく振る舞うその子は、そうするしか無かったのではないか、
一人で抱え込むその子と親御さんの関係性は到底心の内を打ち明けられない関係性では無かったか、
と正直、邪推してしまうのです。

確かに、学校を始めとした関係各所に重大な問題は有るにしろ、

其処を、敵、にする前に、
明るいだけの子は、悲しみを表に出せない子である事、
一人で抱え込む子は、苦しみを表に出せる環境にない事、
を親御さんは感じ取っておられたのか、が不謹慎かも知れませんが引っかかるのです。

決めつける訳では無いのですが、いつも笑っている屈託の無い子が、
自ら生命に終止符を打つ程までに追い詰められながら、
苦しみを親御さんに打ち明けなかったのは、
笑顔の下で泣いていたのではなかろうか、
苦しみは表に出してはならないと感じていたのではなかろうか、
と、思えてならないのです。

私の邪推が真実と近いものならば、

親御さんは、その子を自分のズルさから目を逸らす為に、敵、の役目を負わせ、

その子がいなくなったら、学校に、敵、の役目を負わせ、

自分は悪くない、自分はズルくない、と思ったまま生きる事になります。


生きていれば、責任を回避したい事、回避してしまう事、もありますが、

その時は、自分の心の有り様を、

しっかりと見定める事が、

人生を豊かに、

人間らしく生きる事に、

直結する様に思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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