その時、感情は滔々と流れる
自分の感情を捨てて、親の感情を優先しなければならない親子関係に晒された子は、自分の感情が分からなくなってしまいます。
生まれた時から、
親の感情の動きをいち早く察知して、
自分の感情を投げ捨てて、
親が望む感情を表現し続けたから、
その子にとって自分の感情は、
ただ投げ捨てるだけの、
取るに足りないもの、
もっと言うなら、
邪魔なもの、ですらあるのです。
たとえば、悲しくて悲しくて今にも涙が零れそうになっても、
親の顔色を伺って、親が自分に明るく笑う事を望んでいると察知すると、
とびきりの笑顔を作ります。
自分の、涙が零れそうなくらい悲しい気持ち、は投げ捨てます。
そして親が望む、明るい子供、を演じます。
昨日今日始まったことではありません。
明日明後日終わることでもありません。
長く続いて、ずっと続きます。
そうやって自分の気持ちを投げ捨て続けるうちに、
もはや感情が湧き上がるとオートマチックに投げ捨て、親の顔色を伺い、親の望む子供になってみせるまでが、ワンセットになってしまい、
そうなった頃には、その子は自分の感情を完全に見失ってしまいます。
感情を失った子は、自分の人生がまるで他人事の様に感じられます。
砂を噛む様に味気無く、リアリティがありません。
そんな、感情を見失った世界に生きる子、は、
機能しない、感情、の役目を、思考、で補う様になります。
感じる、代わりに、考える、様になります。
本来、感情は川の流れの様に、常に動き、
思考はここぞ、という時に集中的に動く仕組みになっています。
ところが生まれた時から、自分の感情を投げ捨て続けた子は、感情が機能しません。
流れない、のです。
その堰き止められて、流れなくなり、淀んでしまった感情の代わりに、
その子は思考を常時フル稼働する様になります。
投げ捨ててしまったにしろ、かつて感情は湧き上がったのです。
感情が流れていた、という事です。
しかし、感情は捨てました。
流れを堰き止めた、のです。
親の顔色を伺い、親の感情を察知するのは、思考の仕事です。
その子は、感情を堰き止めて、思考を常にフル稼働して生きる様になります。
その子は、思考一辺倒の人、になります。
思考一辺倒の人は、感情が機能しないのですから、
他人の気持ちがわからない人、になってしまいます。
他者を思いやる事ができません。
思いやることが出来ないと、他者を尊重する事が出来ません。
他者を尊重出来ないという事は、他者を愛する事が出来ません。
もっと言うなら、思考一辺倒になってしまうと、
他者と関わり合っている様で、実は他者不在の極めて独り善がりな世界に生きる事になります。
感情が動かず、流れず、機能しない、という事は、
他者と心が触れ合わない、という事です。
心のこと、は、感情の仕事、だからです。
思考一辺倒でも、カタチは整える事が出来ます。
カタチを整える、とは、それらしく出来る、という意味で言っています。
幼い日、親の顔色を伺って、親の感情を察知したのは、思考がフル稼働の状態です。
感情は投げ捨てましたから、リカバーする為に思考がフル稼働して、
親の望む子供、という、カタチ、を整えます。
それらしくする訳です。
その子は、学校に行っても、社会に出ても、
カタチを整え、それらしく、思考一辺倒で生きます。
親の顔色を伺い、親の感情を察知し、親の望む子供になって、カタチを整えた様に、
学校でも社会に出ても、周囲の空気を読み、目の前の他人の感情を察知し、出来得る限りカタチを整え、それらしく振る舞います。
カタチを整え、それらしく振る舞いますが、
周囲が楽しそうだから、自分も楽しそうにするだけで、
本当は少しも楽しくありません。
思考だけが暴走し、感情が置いてけぼりだから、です。
感情は川の流れの様に常に流れ、
思考はここぞ、という時に限定的、集中的に働くのが本来の仕組みです。
感情が堰き止められて、思考がフル稼働する状態は、思考にとってはオーバーワークなのです。
原付きバイクで高速道路をフルスロットルで走り続ける様なものです。
無理がたたって、原付きバイクのエンジンは焼き付いてしまいます。
思考一辺倒で無理に無理を重ねているのが、生きづらい状態であり、
とうとうエンジンが焼け付いてしまった状態が、世に言う、燃え尽き、や、鬱、だと思っています。
動けなくなってしまいます。
燃え尽きる前、無理に無理を重ねて走り続ける間、
思考一辺倒で生きる人は、人生が他人事に思え、虚しく、苦しく、生きづらいから、もがきます。
もがく人は、自分や他者に攻撃を加える事で苦しみから目を逸らす様になります。
自分を攻撃する人は、悩み苦しみ、心を病みます。
自傷行為に走る事も、生命に関わる行為に及ぶ事さえあります。
他者を攻撃する人は、自分よりも弱い他者を攻撃します。
家の外なら、いじめですし、家庭内なら虐待です。
自分の感情を捨てて、親の顔色を伺い、親の感情を優先する子のお話しをしましたが、
子供に感情を捨てさせる親、子供に自分の感情を押し付ける親こそが、
感情が流れず、思考一辺倒になり、子供を思いやる能力を失い、子供を尊重出来ず、子供を愛せない人、です。
その親も、かつて親から愛されず、感情が流れなくなり、思考一辺倒の人になりました。
思考一辺倒の親は、子供を思考一辺倒の人にしてしまいます。
悲劇的なのは、思考一辺倒の人は、自分の感情が堰き止められて流れず、淀んでいる、という事に、なかなか気がつく事が出来ません。
感情が淀んしまっているから、です。
苦しくても淀んでいるから気がつく事が出来ないのです。
終わらない禅問答の様ですが、気がつく方法はあります。
自分と向き合う事です。
感情は投げ捨てて、閉じ込めて、流れなくなってはいても、
消えて無くなった訳ではありません。
長く苦しんだからこそ、ふとした時に差し込む光りが見えるタイミングを迎えます。
もしも、自分は自分の感情に従って生きていないんじゃないか、と感じるならば、
その人は、長い苦しみを生きる事を通じて、自分と向き合う入り口を見つけた人、です。
差し込む光りを見逃さず、恐れず、
光に向かって歩いて欲しく思います。
長い苦しみを踏み越えて生きたその人はきっと、
自分と向き合うことが出来ます。
感情が滔々とした流れをつくる日は、
そう遠くはありません。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム