受け容れる人、裁く人
軽やかな心持ちで人生を歩む人は、自分の心の中は自由なスペースである、と認識している人です。
軽やかな心とは、さぞかし清く、正しく、美しい心なのだろう、と想像する人は多いのではないか、と思っているのですが、
軽やかな心であろうと、重々しい感覚に支配された心であろうと、
我が儘な想いも有れば、
意地悪な気持ちにもなれば、
ズルい事を考える事もあるのです。
軽やかな心持ちで生きている人は、我が儘な自分、意地悪な自分、ズルい自分を知っていますし、
そんな自分を受け容れています。
軽やかな心の人は、自分の我が儘さ、意地悪さ、ズルさ、を心に収める事が出来ず、言葉として発したり、行動として表してしまった時に初めて自らを戒めます。
その戒めは、感情に任せて発言してしまった事、行動してしまった事、に対する戒め、です。
言動については、良くなかったな、と反省します。
つまり、失敗したことを反省しますが、
湧き上がった感情は、湧いて出てきたのですから、そのまま受け容れます。
それらの感情も、それらの感情を持った自分の事も、責めたり、恥じたり、拒否する事は無く、
あくまでも戒めるのは、外に向かって発した言葉と、外に向かって取った行動であり、
そのことで、自分を嫌ったりもしません。
一方、重々しい感覚に支配された心で歩む人は、我が儘な感情が心の内に湧き上がった時点で、自分を責めます。
意地悪な感情を持った時点で、自分をなじります。
ズルい自分を許しません。
自分の、我が儘さ、意地悪さ、ズルさを恥じて責め苛みます。
当然、そんな感情を覚えてしまう自分を嫌います。
自分で自分を責め苛み、嫌う事ほど、苦しい事は有りません。
その苦しみが大き過ぎて、受けとめきれなくなった時は、
自分を責める代わりに、自分より弱い存在を責める事もありますし、
あまりにも苦しくて、あまりにも重たくて、心が潰されてしまう事すら有ります。
軽やかな心と、重々しい心を分ける要因は、
心の内側が自由か否か、という事です。
軽やかな心の人は、どんな感情が湧き上がって来ても、それを否定も拒絶もせず、そのまま受け容れます。
たとえ、それが世の中で歓迎されない感情であったとしても、心の内側は、自分だけの自由な場所なのですから、そのまま受け容れます。
そのまま受け容れる、という事は、自分を責める事がありませんし、よって自分を嫌いになる事もありません。
重々しい心の人は、心の内側に感情が湧き上がるや否や、ジャッジします。
その感情が好ましいか、忌まわしいか、裁きます。
そして、好ましく無い、と裁定が下ると、即座にそんな感情を恥じ、感情を生み出した自分を責めます。
こんな感情は良くない、こんな感情を生み出した自分は悪い、と責め苛み、
だから、自分が大嫌いになります。
軽やかな心の人は、心の内側は、何を感じても良い自由な場所であり、
重々しい心の人にとって、心の内側は、裁きの場であり、罰する場所なのです。
光りが強いほどに、出来る影は深く濃くなります。
人の心も、ポジティブが有る分だけ、ネガティブも生まれます。
確かに、私達は希望の光りを纏ってこの世に生まれますが、
この世は光りの側面だけでは生きる事が叶わない、物質世界、です。
だから、曲がった事など生まれて一度もした事がない人はいませんし、
生まれてこのかた、嘘をついた事がない人も私はいないと思っています。
物質世界を生きるには、光りの存在では居られないのです。
私達が周囲に天使を見つける事が出来ない由縁です。
裏表、本音と建前、は好むと好まざるとに関わらず、有るもの、です。
心の内側で思っていること、と言動が異なっている状態を、毛嫌いする人もきっと居ると思いますが、
その毛嫌いする人が、生まれてこのかた曲がった事を一切した事が無く、
嘘をついた事など一度も無いのか、と言うと、おそらくそんな事は無い筈です。
先に述べた様に、この世は、光りの側面だけでは生きられない仕組みになっているから、です。
曲がった事をしましょう、嘘をつきましょう、という話しをしている訳ではありません。
心が成熟して行く内に、心の内側と言動が整合性を増し、表と裏の食い違いが少なくなって行くのは必然です。
それが心の成長だと思っています。
心が成長する為には、心が自分だけの自由なスペースである必要があります。
どんな感情が湧き上がっても構わない、そんな自由な場所が確保出来ればこそ、心は成長し得ると言えます。
重々しい感覚に支配されて人生を歩む人は、
自分に、心の自由、を与えてもらえない親子関係に晒された人、なのだと思います。
親は子供の心にズカズカ踏み入り、その子の感情を遠慮なく、裁いた、のです。
優しくないお前は悪い子、
賢くないお前は悪い子、
強くないお前は悪い子、
湧き上がる感情を、親は逐一、裁きます。
生まれてからずっと、その人の心は親が裁きを下す場所だったのですから、
少しも自由が有りません。
だから、心は成長の歩みを停めてしまいます。
清く無い自分、正しく無い感情、美しく無い心、それすらも愛すべき自分の一部分だと全面的に受け容れられたなら、
心が重く塞いでしまう事は、そうは無い、と思っています。
ただ生きている、それだけで苦しいなら、
ただ存在するだけで、許されないと感じるなら、
湧き上がる感情を裁き、
自分自身を責め、嫌っていないか、
今一度、目を凝らし、耳を澄ませて、
確かめてみて欲しいのです。
心は本来、自分だけの自由な領域であり、
決して、自分を裁く場所では無い、のです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム