「普通」と「普通ではない」の境目
早起きして朝焼けの鮮やかなグラデーションを見ていた。
この写真は数年前に富士山山頂で撮影したもの。ご来光(日の出)の時刻が迫り、頂上はご来光を一目見ようと、大勢の人が集まっている。
先日のプロフェッショナルでは精神科医の本田秀夫さんが出演されていた。
普通と普通ではないの境界線はなんだろうか、人の幸せとは何だろうか。そんなことを常に考えながら、患者さんの治療にあたっている。(本人は治療しているつもりはないと仰っていた。)
発達障害というキーワードは、もはや私の仕事のなかでは無視できないキーワードとなっている。小学生の15人に1人がこれにあたるという統計もある。現に私のクラスにも発達障害や不登校などで、もう小学生にして生きづらさを抱えている子が何人かいる。
マット・バンドの錯視というものがある。「マッハバンド(Mach bands)とは、微妙に濃淡の異なるグレーの領域が接触している場合に、暗い方の領域の境界付近はより暗く、明るい方の領域の境界付近はより明るく強調されて見える、錯視の一種である。この錯視はエルンスト・マッハにちなんで命名された。」というものである。
「世界は分けてもわからない」の著書である福岡伸一氏はこの「マッハハンドの錯視」を例に挙げながら「連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう・・・」つまり、グラデーションの中にあるはずがない、色の境界線が浮かんできて、あたかも色分けされているかのように見えてしまうという。「逆に不連続な点と線があると、私たちはそれらをつないで連続した図像を作ってしまう。」
「つまり、私たちは本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。」
朝焼けのグラデーションを見ながらそんなことを思い出した。朝焼けや夕焼け空も、じっと見つめていると青、白、赤の横の線が浮かんではこないだろうか。しかし、そこには線など存在するわけがない。
発達障害などで生き辛さを抱えている人たちを見ると、我々とは生きる世界が違う、別の生き物のように思われがちだ。逆に、そういった生きづらさを抱えた人たちは発達障害ではない(?)生きづらさを感じていない人たちから境界線を張られることに苦しんでいるのではないか。そう考えるようになった。
人間に境界線はあるのだろうか?肌の色が違う人は違う人間か?背の高さの違う人間は別の生き物か?近視でメガネをかけている人とそうでない人は違う人間か?答えはノーだ。しかし、本当の意味でそれらを理解することはまことに難しい。