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「噛む女、噛まれる男」

 彼女は噛む女、肩でも上腕二頭筋のあたりでも、指や耳、唇にうなじを噛む、とにかくところ構わず噛む。
 噛むにはそれなりの理由がある。だいたい噛む時はきまって求めている時だ、肉体関係を求める時、その合図として彼女はきまってボクを噛む。
 噛む女は往々にして愛情不足なので、日常或いはその過去に問題を抱えていることが多い。
 彼女、美潮(みしお)にはどんな問題があるのだろう?その理由を聞くことからボクは逃げていた、というか、かわしていた。その理由を聞いてしまえば、もう二度と戻れない船出をしてしまいそうで、遠浅に行くことをボクは拒んでいた。
 あまり深く関わらない、浅く、それでいて親密に、そういう距離感がセックスフレンドとしての良い距離感だと思っていたし、事実そういう距離感でボクたちはうまくいっていた。
 美潮は若くして結婚した、しかし子供ができなかった、それでも良き夫は彼女を愛した、他人から見れば良い夫婦に見えた。三十二歳でファッションエディターとしてそれなりの地位にいたし、彼女の六歳年上の夫は外資系のコンサルティング会社でバリバリ働いてマネジメントする立場にいた。
 この良き夫婦はブランドを何気なく自然に着こなし、普段から品の良い格好をしていた。いつも清潔な石鹸の香りがするような、そんな生活を日常としている誰から見てもまともで憧れの対象にさえなる、そんな夫婦だった。
 彼女たちと初めて会った時も揃いで着ていたギャルソンのシャツからは嫌味のない清潔な印象を受けた。その時、ボクはと言えば適当に仕方なく買ったユニクロのパーカーを着ていた。
 しかし、清潔で品が良く、絵に描いたように仲の良い夫婦からはセックスの匂いがしなかった。彼らが裸で抱き合ってやはり質の良いシーツのベッドで秘め事をしている姿が全くと言っていいほど予想できなかった。
 ボクは時々、二、三ヶ月に一回位の頻度で彼らの白金高輪にある高級マンションを訪ねていた。
 彼らはそれくらいの周期で旅をしたり夫の実家がある北海道に行っていた。結婚八年目の夫婦にしては本当に仲が良いように見えた。
 ボクは彼らが家を留守にする間彼らの飼うヨークシャーテリアのアンズを預かった、そうボクの仕事は富裕層向けのペットシッターとペットホテルの運営会社で働いていた(会社といっても社員は五名の小さな会社だが)。顧客はほぼ常連だったので、ペット様をお迎えにいくというシステムをとっていた。
 初めて美潮から接触されたのは正月明けの頃だった。
 彼女がアンズを迎えに来た時、店舗にあるカフェスペースで一緒にコーヒーを飲んだ。いつもお世話になっているから今度食事にでも、そんな風に言われて彼女の連絡先を渡されたのだ。いつもアンズを預かる時はきまって夫の昌行さんから連絡があったので、その時ボクは初めて彼女の連絡先を知った。
 ご夫婦とボク、三人でちょっといい値段のする広尾の創作和食のレストランでもいくのか。最初はそう思っていたが、連絡が来て行ってみたのは渋谷の大衆牡蠣料理店でしかも、そこに居たのは美潮だけだった。
「ねえ、知ってる?欧米ではオイスターバーに男女二人で行くっていうのは、いわゆる男女の関係になってもOKっていう、そういうサインなんだって」
 笑いながらそう冗談ぶく美潮が素直に可愛い人だなって思ったことを今でも鮮明に覚えている、生牡蠣を艶かしくすする美潮を少し抱きたいなと思ったことも。
 結局、その日は何もなく、二人は解散したがそれから月に二度位のペースで会食をした。
 ボクも最初は興味本位で人妻とデートすることに楽しみを覚え、しばらくは手をつないだり、軽くハグするくらいの関係を続けたが、五回目のデートでついにホテルに辿り着いてしまった。
 円山町の安いラブホテルは美潮には似合わなかった、三十二にしては整っているボディーライン、少し背は小さく華奢だが豊満な胸はボクの性衝動を駆り立てた。結局ボクらは一夜で二回果てた。
 様子が変わったのは三回目のラブホテルに行った時だった。
 ベッドでじゃれている時、彼女がボクの指を噛んだのだ。ああ、なるほど、そういう趣味のある子なのか、ボクは最初そんな風に思ったが、彼女の噛みグセは少し異常で四回目のラブホテルではボクの全身に彼女の歯型が残った。
 ボクは噛まれるは嫌いじゃなかった、ボクは求められれば断らない、そんなタイプだったし、巻き込むより巻き込まれる、そんな人生を三十五年間生きてきた。だから、いい歳して婚歴もなかったし、自分で何かを決めて動ける才がなかった。場当たり的にいつも生きている、それがボクだった…。
「まあ、噛まれる方にも理由があんだろうな…」
 もう何度目か分からない逢瀬の後、ボクは一人シャワーを浴びながら、お湯で染みる美潮の噛んだ痕を見ながら独り言ちた。美潮は大抵事が終えるとさっさと眠るか、先に帰ったりした。
 噛む女から連絡が一切なくなったのは五月も末になる頃だった。すっかり連絡がなくなった。
 大抵、二人で会う時は彼女の方から連絡があり都合も彼女次第、そんな感じだったのでボクから連絡することはしなかった。それにボクから連絡をするのはボクの彼女との関係性を保つ上で流儀に反していた。彼女は他人のものだし、それをボクの意思でどうにかするなんて大それたことはボクにはできなかったし、したいとも思わなかった。
 確かに美潮は綺麗な女でセックスも良かった、ボクの身体も随分と満足を得たし、最近ではエクスタシーの限界に挑戦できるような良きパートナーになっていた、二人で超えた頂は数え切れなかった…。
 七月を迎えた、もう美潮と仕事以外で会うこともあるまい、というか最近はアンズを預かってくれという依頼もなくなってしまった。もしかしたら昌行さんに二人の関係がバレたのかもしれない、優良な顧客を一組なくしてしまったのか、そうだとしたら会社に申し訳ないな、そんな風に考えた。
 ボクの身体から美潮の歯型が全部なくなった。もうシャワーを浴びても染みない、生牡蠣を食べても彼女の甘美で誘惑的な身体を思い出すこともなかった。ああ、なるほどもう終わりなんだな、いや最初から始まってもいなかったんだきっと、そう思うようになった八月の一日、美潮から急に連絡があった。
「ねえ、またあなたの身体噛みたいな」
 短いメールにはストレートだが彼女の本能が乗り移っていた。
「なぜボクを噛みたいの?噛まれる男にも問題があるのかな?それとも誰でもいいってことなのかな?」
 いくつかのやりとりを超えたような質問をボクは彼女に送る。
「誰でもいいってわけじゃない、噛みたい人っているんだよ、タイプが」
 こんなメールのやりとりに何の意味があるのだろうか。
「じゃあボクはキミの餌食ってことかな?」
 ボクも彼女の軽率なノリに合わせて悪ぶる。
「噛まれるときのあなたの顔が好き、ただそれだけ」
「旦那さんを噛めばいいのでは?」
 ボクは意地悪をする、もう会いたくないが会いたいとどこかで思っている気持ちが揺れ動く。
 メールはなぜかそこで終わってしまった。彼女からの返信はなかった。それきり彼女から連絡がくることはなかった。
 夏が終わった。彼女の顔も彼女の身体も、あんなに深く愛撫した秘部も、彼女の毛量は多いが綺麗な手入れの行き届いた髪も、憂いを含んだ瞳も、柔らかく感度の高い唇も、すべて忘れた。
 ただ、時々、一人でシャワーを浴びている時、彼女が噛んだように自分の指を噛んで、その感覚だけを思い出すことがある。痛みの記憶はその他の細部なんかより残るもんだ。 
 薄っすらと自分の指を噛み、ボクはボクの陰部を膨らませた、噛めば噛むほどその部分はカチンコチンに硬直し反り立った…。
 彼女は、美潮は、もしかしたらこのことを知っていたのかもしれない、噛めば記憶に残ること、痛みは愛情を通りこし野性的な本能を呼び起こす鍵であることを。それを知っていて、そういう素質のある人間を選んで噛んでいるのかもしれない。
 噛む女にも、噛まれる男にも理由があるのかもしれない…。ボクは薄っすらと想像の翼を広げる。そして一方でこんなこと癖になってしまってはいけない、そんな風に揺り戻す理性的な自分の存在に気づいた。
 痛みの記憶と、性の喜びの記憶、そして噛む女のボンヤリとした記憶が秋の快適な風に吹かれて少しづつ風化していく、ボクは目覚めない、あくまでも噛まれる男であることを自分で否定しながら、秋の風を全身で受け止めた。
 秋の風は傷跡を癒やすガーゼのような優しさと柔らかさでもってボクを包みこんでくれた…。

(終)
*オールフィクション

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