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第10話 戯曲「ベント」とガンダルフとプリティ・ウーマン

 僕たち夫婦は市立中学の先輩後輩でもあるから、帰省先は同じ街ということになる。僕の実家からソラちゃんの実家までは徒歩10分だ。結婚して初めての里帰りなのだけれど、なんだか不思議な気分である。持って帰るような荷物もほとんど無い。お互い、実家に多少の衣類は置きっぱなしにしているからだ。

 僕たちはマンションを出て大崎駅から山手線に乗り、渋谷駅で井の頭線に乗り換えた。この電車はソラちゃんの母校の前を通る(それどころか駅名にもなっている)けれど、ソラちゃんは特に懐かしそうな顔をするでもなく、スマートフォンの画面をチェックしている。

「やっぱりnoteの方が人は来るなあ」
「あれですか?」

 さすがに電車の中で「賢者のセックス」とは口にしづらい。

「1393ビューだって。タイムラインに表示された分もカウントされる仕様だから、クリックして読みに来てくれた人の数はもっと少ないんだろうけど、でも章ごとの数字を見ると、ほら、昨日で更新完了した11章が160で今日からアップ開始した12章が16、あとは序章からだんだん数字が減っていってるからね。数字の出方はカクヨムと同じ。それで追放イベントが発生した10章の一つ前の9章から数字が増え始めてる。ということは?」
「カクヨムで少し遅れて読んでくれてた人たちが移ってきた?」
「のかな。タイムラインに流し込まれる数をカウントしていたとしても、PVの傾向がそれで見えなくなるほどではないと思う。だから、PixivやWattpadの分も足すとまあまあ、そんなにダメージは無かったって言えそうだね」

 ソラちゃんがニヤリと笑ってみせた。

「あと、やっぱり11章は反響大きかったよ~」
「そうですか……そうですよね……」
「NTRフラグからの、あれだもんね」
「あれですね……」

 「賢者のセックス」の中で僕たちはいっぱいセックスをしたのだけれど、11章の最後はお互いに全く接触しないままのセックス……のようなものだった。あれは本当に恥ずかしかった。でも、反響があったのなら頑張ったかいがあったのかもしれない。

「過激なのに美しい、ってコメントも頂きました」
「美しい……かったですか?」
「どうなんだろうね。私たちは当事者だからなんとも言えないよね。あのときは二人とも必死だったし」
「必死でしたね」
「小説として書いている時も、とにかく私たちの感じてた恥ずかしさが上手く伝わるようにって、それだけ考えてたし」

 ええっと、繰り返しになるけど僕たちの話を小説に書いているのはソラちゃんです。ソラちゃんが僕視点で小説にしてるんです。だからセックスしてるときに僕が何を感じていたのかは、後で徹底的に聞かれました。根掘り葉掘り。5月から6月にかけて。

「それが結果的に美しいって言われたのは、意外ではあったけど、嬉しかったよ」

 たしかにあのシーンのソラちゃんは綺麗だったと思う。僕がどうだったかはわからない。気になる方は是非、読んでみてください。

 電車は下北沢駅を出て明大前駅に向かっている。次で乗り換えだ。

 ソラちゃんはスマホをしまって両手でつり革にぶら下がった。

「そういえば十二章で出てきた戯曲」
「ベント?」
「うん。あれも、知らなかったですって反応があったけど、そんなに有名なの?」
「マーティン・シャーマンはあの戯曲でアントワネット・ペリー賞にノミネートされてるよ」
「アントワネット……」
「トニー賞って言った方がわかりやすいかな? 演劇の世界だったらイギリスのローレンス・オリヴィエ賞、フランスのモリエール賞、アメリカのトニー賞が一番大きな賞だね」
「そんな凄い賞なんだ」

 僕たちは明大前駅の井の頭線のホームから京王線のホームへと向かう階段に向かって歩いている。

「ロンドンでの初演の主演がイアン・マッケラン。知ってるでしょ」
「知らないです」

 ソラちゃんが左肩で僕の右腕をつついた。

「君、4章の十七話で映画の「指輪物語」見たことあるって言ってたじゃない」
「ん?」
「ガンダルフ」
「えっ?」
「ガンダルフ役をやってた人だよ、イアン・マッケラン」
「知ってました」
「ブロードウェイでやったときの主演はリチャード・ギア」

 さすがにリチャード・ギアはわかる。

「ま、それよりも大きかったのは、ゲイライツ運動への影響だって言われてるね。ピンク・トライアングルって知ってる?」
「ベントの動画に出てきた?」
「そう。主役のマックスや強制収容所で出会ったホルスト、二人の服に下向きのピンクの三角形の布がついてたでしょ。あれはナチスの強制収容所で男性同性愛者の服の胸に縫い付けられていたマークでね。元々は、こいつは同性愛者だぞって迫害のためのマークだったわけ。同性愛者を迫害したのはナチスだけじゃないよ。ドイツが男性同性愛者への処罰を完全に解消したのは2017年」
「えっ!? 4年前?」
「そう。1994年にはほぼ解消されてたんだけど、それ以前に有罪になった人たちの権利を回復する法律が通ったのが4年前なの。イギリスは連合王国だから1967年から1992年にかけて男性同士のセックスが合法化されたんだけど、それ以前には、例えばアラン・チューリングが男性同性愛の罪で有罪になってたりするよ」

 アラン・チューリングは僕も知っている。今のコンピュータの理論の基礎を作った天才数学者。

「アメリカだって全土で男性同士のセックスが合法化されたのは2003年でね」
「日本は?」
「1880年」
「はやっ!」
「もともと男性同性愛の文化はあったし、欧米と違ってキリスト教の考え方も支配的じゃないから、その辺は日本はうるさく言わないんだよね。でさ、話を戻すと、今はピンク・トライアングルはゲイライツ運動の象徴なわけね。つまり、元々は迫害の印だったものの意味を読み替えて、抵抗の象徴にしたの」
「うん、わかる」
「「ベント」はピンク・トライアングルの意味の読み替えのきっかけの一つになったとも言われてる」
「そんな歴史的な戯曲だったんだね」
「……さっきも言ったけど、日本って同性愛のセックスについては案外ゆるいところがあって、だからなのかな。ボーイズラブとか百合とかいってフィクションの創作の題材として大流行だよね。でも、同性愛者の権利擁護についてはあまり進んでいないし、当事者から見てボーイズラブや百合のフィクションがどう感じられるかみたいなことも気にされていない。投稿小説サイトだって性器や性行為の描写は許さないけど、LGBTQの描かれ方なんか知らない、ページビューさえ出れば何でも良いみたいなノリじゃない? でも行く所に行けば今でも同性でセックスしたって理由で人が殺されてたりする現実もある。実はそんなに軽々しく扱えるテーマじゃないって思うけどね、私は」

 僕たちは京王八王子行きの特急を見送り、各駅停車の橋本行きに乗った。電車は空いていた。

 ここから故郷の駅まで25分。

 今夜は僕の実家に、明日はソラちゃんの実家に二人で泊まることになっている。実はお互いに初めての経験だ。ちょっと緊張する。緊張するけれど、夫婦になったんだという実感も湧いてくる。

 初詣はもちろん天谷戸神社だ。

 天谷戸神社は60話で出てきます。プロット上、かなり重要な神社です。お楽しみに!


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