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リトリートには「刺激」と「器」が必要
何がリトリートをリトリートたらしめるのか?
その問いに関する考察(仮説)です。
問いが出てきた背景には、私がやっている「アートリトリート」の感想に
「ちゃんとリトリートだった」という言葉が複数あったことにあります。
「アートリトリート」とはどんな体験か?
最初の参加者、ワカナさんが言葉にしてくれた記事はこちら⇩
とても嬉しい、安心する承認の言葉ですが、
アートリトリートは森や里山ではなく美術館で行っているもの。
勿論私の中で、これはリトリートだという自信は持っていましたが
この体験の何が、「リトリート」だと参加者に感じさせているのか?
その問いを持って、開催を続けてきました。
今の結論は、「参加者に刺激を与える”何か”」と
「その刺激を受け止める”器”」が「両方」存在するから、ということです。
森や里山など、自然の中で行われるリトリートは、
多くの場合、両方を自然そのものが担っています。
(当然、場を作る人も両方の一部を役割として持っていると思います)
大地や山々、海の壮大な「受け止める力」と
日常とは異なる、時に厳しく、残酷で、素直すぎる環境。
参加者はその「攻め」と「受け」を両方いっぺんに
全身でもって受け取り、そこから全体性※を感じていきます。
※「自分が欠けていない、すでに満たされている存在」と定義
一方、アートリトリートで参加者が触れるアート作品は、
多くが「刺激」に該当します。なぜなら、それらには必ず
アーティストの「意図」(主張と捉えても良い)が入っているからです。
そして参加者が「刺激」をアートから受け取った時、
「大丈夫だよ」と、受け止める器が必要で、
それが場を作る人間、そして美術館の役割になる。
それが成り立つことで、参加者は「自分が受容された」と感じられ
自身の全体性を取り戻していくことに繋がります。
実際に、アートリトリートに参加してくれた人たちの感想の中に
「案内人の人(私)が全てを受け止めてくれた」「肯定してくれた」という
感想がいくつかありました。
私自身、意識してやってきたことではありましたが
参加者のみんながそう感じてくれていて、安心するだけでなく
「それが私の役割なんだ」と、認識を強くするようになりました。
この気づきはとても厄介というか、面倒というか。。
「私はあの偉大な自然と同じ役割を背負っているんだ」ということに
気づいてしまい、真面目な私はプレッシャーを感じてしまうのですが笑
それがわずかでも、今できている自分自身を認めてあげたいし、
「何を大切にしてアートリトリートをやっていけば良いか?」が
明確になって、視界が開けた感覚です。
それもこれも、みなかみ町藤原にリトリートしに帰ったことが
気づかせてくれたこと。うーん、やっぱり自然には敵わない。
けれど、そういう整理がついたのなら、お役目が見えたのなら、
後はそれに向けて、自分のいのちを注ぎ込むだけ。
アートから刺激を受け取った”あなた”を、私は全て、受け取る。
だからぜひ、この体験を私と共にしてくれたら嬉しいです。
お待ちしています^^