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01. わたしが出会った宇宙人たち | ケビンおじさん
ケビンのことは絶対に忘れることはないのだけど、書き記しておかなければならない、と強く思う。
ケビンとはわたしが暮らしていたバイロンベイで出会った。
正直どこでどのようにして出会ったかは覚えていない。
日本人大好きで、海を愛する彼は特にサーファーにすこぶる優しかった。
なんの見返りも求めず人にひたすらGIVEをしていたケビン。
助けられた人は数知れず。
わたしもその恩恵を受けた一人だ。
ビーチで会えば拙い英語でも長話に花を咲かせ、よく家にも招いてくれた。
当時働いていた寿司屋にも週に1回は必ず立ち寄ってくれた。
ケビン自慢の庭の壁にはカラフルな海の絵が描かれている。
病を患いしばらく海に行けなくなった時、いつでも海を感じられるように、と、彼の友人であるアーティストが描いた壮大な美しい絵だ。
その絵の中に鉛筆で下書きをしたままのイルカの絵がひっそりと残っている。
実はわたしがケビンに頼まれて描き始めたもの。
アーティストでもなんでもないただの一般人の絵は、完成しないまま寂しそうに残っている。
そして今後も完成することはない。
ケビンは今年亡くなった。
2020年、オーストラリアもパンデミックの影響を強く受けた。
仕事を失い、当時住んでいた家ではオーナーとの折り合いが悪く、家を出ることになり路頭に迷っていた。
ある日ビーチを歩いているといつものようにケビンに会い、こんなことを言われた。
「貸している母屋のファミリーが、ガレージに住んでくれる女の子を探している。誰かいない?」
「はい、わたし探してます!」
すぐさま元々知り合いだったそのファミリーに連絡し、すぐに入居が決まった。
ケビンは敷地の中にある元々自分が住んでいた母屋を貸し出し、自身は小さな一人用の家で暮らしていた。
元々大工だったケビンが作った家は、陽が当たる向きや風の通り道、全てが計算されていて、冬も夏も快適に暮らせる設計になっている。
たくさんのフルーツが丁寧に育てられた庭の一画を、家庭菜園をしたかったわたしに使わせてくれた。
一からノウハウを教えてくれ、毎日のように一緒に手入れを手伝ってくれた。
仕事が再開してからは、作り過ぎてしまった寿司を夜持っていって一緒に赤ワインを飲む、というのが週に2、3回のルーティンとなっていた。
何度も一緒にサーフィンに行った。
レジェンドサーファーであるケビンはビーチにいると知り合いだらけでなかなか帰ってこれない。
それにイライラしたのも今ではいい思い出だ。
仕事に追われ余裕がなくなっていたわたしにとって、たくさんの人生のヒントをくれるケビンとの時間は、自分に戻れる場所だったように思う。
「車が壊れたー」
「これが壊れたから直してー」
「ここに電話代わりにしてー」
「愚痴聞いてー」
何かあればなんでもケビンに頼んで、甘えまくっていたわたし。
ケビンがいなかったら間違いなくわたしのオーストラリア生活はなかったと言える。
ある日、自分が住んでいた土地に執着心があったわたしは滞在するVISAに悩んでいた。
「こんなバイロンみたいに自然が綺麗でパラダイスみたいなところ、他にないよ」とケビンに話した。
すると彼は
「そうだね、確かにバイロンは素晴らしいところだ。けどね、自分が幸せであれば、どこにいてもそこがパラダイスなんだよ」
と真っ直ぐに目を見つめながら言った。
その言葉が今の自分のバイブルになっている。
今のわたしは心からどこに住んでいても幸せだ、と思えている。
2度の離婚を経験し、辛い経験もたくさんしてきているケビンの言葉には重みがある。
肩の手術、癌の闘病中も、決して弱音を吐かず、いつもポジティブだった。
人に頼ることが苦手で、もっと頼ってくれていいのに、と思うことも多々あった。
わたしが引っ越してからも遊びに行ったり、交友は続いていた。
そんなある日、一度完治した癌が再発した、という知らせを受けた。
今回はだいぶ悪いらしい、と。
友人であるケビンの親戚から、副作用で手足がパンパンに浮腫んでいる、マッサージをしてあげられないか?と連絡がはいった。
マッサージを生業としていたわたしはすぐさま向かい、その日から、空いた時間はケビンの家へ向かうようになった。
ケビンの調子が良い日にはビーチにタオルを広げ、マッサージ後には海に足をつけて子供のようにはしゃいだ。
やはり海がよく似合う。
いや、海がケビンを呼んでいたんだと思う。
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何度もお金を渡そうとするケビンを頑なに断った。
お金を取ることはしたくない。
これは仕事じゃない、わたしにとっては恩返しなのだ。
といっても、TAKEが苦手なケビンは、じゃあ自分の息子がやっているレストランに行こう、そこで一緒に食事をしよう、と誘ってくれた。
ケビンの息子はその界隈だけにとどまらずオーストラリアでも有名な隣町のオーナーシェフなのである。
ありがたく一緒に行かせてもらい、設計を手伝ったというレストランを隅々まで案内してもらった。
素晴らしい料理に舌鼓をうち、自慢の息子を誇らしげに語るケビンの顔が忘れられない。
そんな日々を過ごしていた中、わたしはケビンに言えなかったことがある。
7年過ごしてきたオーストラリアを離れて日本に帰るという決断をしたこと。
しかしそれを言わなくて良かったと思える出来事がすぐに起こる。
別れは突然にやってきた。
2週間の西オーストラリア旅行を終え、旅の話をシェアするのを心待ちにしていた時だった。
再発してから2度目の抗がん剤治療を受け終わった後、体調が悪くなり、入院した。
親戚から今回は山場かも知れない、という連絡を受け、ケビンに明日会いに行くね、とテキストをすると、いつでもきて、待ってるよ、と返事が来た。
ざわざわした心が少し安心した。
しかし、その後数時間で亡くなったという。
自分の足でトイレに行き、眠るような最後だったと。
なんてケビンらしいんだろう。
突然の別れでしばらくは何も手につかなかった。
心にぽっかりと穴が空いた、とはまさにこのこと。
数日経ち、2つのセレモニーが行われた。
1つ目はパドルアウトと呼ばれるサーファー特有のもの。
海上で輪になり、ケビンを想い送り出す。
その日は美しい日で、サーファーだけでなく、たくさんのイルカたちも集まった。
その場にいた誰もが、あぁ、彼らもお見送りに来たんだね、と心から感じた。
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2つ目はケビンの甥が経営しているレストラン兼ウェディング施設でのセレモニー。
そこで友人である親戚(ケビンの甥の日本人のお嫁さん)と話す機会があった。
最期を迎えた病院で、なみを呼んでくれ、と言っていたそうだ。
家族でもないわたしをなぜ・・・。
それを聞いて、なぜあの時に知らせを受けてすぐに病院に向かわなかったんだろう、と涙が止まらなかった。
しょっちゅうわたしの話をし、わたしが描いたケビンをサーファーサンタクロースにしたクリスマスカードは、子供にいくら欲しいとせがまれても、これは宝物だから、と決して譲らなかったという。
ろくに英語も話せなかったし、特別に目立つものがあったわけではないわたしになんでこんなに愛を注いでくれていたんだろう。
その友人が言った。
ケビンはなみちゃんにきっと特別なつながりを感じていたんだろうね。
僭越ながら自分自身もそう思う。
きっと前世は親子だったのか、何か近い関係性だったのだろう。
よくケビンが言っていた、僕はなみのオージーアンクル(オーストラリアの叔父)だから、なんでも頼っていいんだよ、と。
今こうして彼を思い出しながら文章を書いていても涙が出てくる。
後悔をしたらキリがないが、今の涙は感謝の涙だ。
その時に感じた後悔は、今後の人生に活かしていく。
会いたいと思った時に会いにいく、伝えたいと思った言葉があるなら今伝える。
今でも正直まだ実感が湧かない。
人が本当に亡くなる時は体がなくなった時ではなく、忘れられた時だ、という話を聞いたことがある。
痛みや苦しみから解放されて、今頃綺麗な波のたつスポットを見つけて思いっきりサーフィンを楽しんでいるだろう。
またいつか一緒にサーフィンをできる日を心待ちにしているよ。
今世でケビンおじさんに出会えて本当にわたしは幸せだ。
Love you