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06.わたしが出会った宇宙人たち | おじいちゃんおばあちゃん

今日はわたしの祖父母の命日である。

祖父と祖母は約10年ほど前に同じ日に亡くなった。

正確に言えば24時間以内だが日はまたいでいるため、一日違い。

それを言うと、よく事件?事故?と聞かれるが、両方違う。

今日は大好きな母方の祖父母の話をしようと思う。



母の実家は山形の鶴岡という場所で、日本有数の米どころ。

山も海も近いため、なんでも美味しい!

祖父は戦後米作りに従事し、庄内地方の米文化を今のように発展させた優秀な米農家の一人だった。

幼い時に、忘れられない思い出がある。

鶏を飼っていた祖父がある日、1羽絞めて捌く様子をわたしたち孫に見せてくれたのだ。

ついさっきまで、可愛いねーと餌をあげていた彼らの命を奪う、当時まだ小学生に上がったか上がらないかのわたしには相当悲惨な光景だった。

あの様子はいまだに鮮明に覚えている。

けど、これが命をいただくということ。

そして、米農家が言う「米粒一つにも作った人の魂、自然の恵みが入ってるんだ」
という言葉にはものすごい重みがある。

それを幼い時にしっかりと体感させてくれた祖父には感謝しかない。

あれが今でいう『食育』というものだったのだろう。


今はなき鶏小屋


祖父は戦争で足を負傷したのをきっかけに、高齢になるにつれてだんだんと足が不自由になった。

会うたびにびっこを引いていた状態から杖になり、杖から歩行機になり、ついには歩くことが困難になっていた。

そして癌を患い、家が大好きな祖父は自宅で生活することを望んだ。

幸い、喋ることが大好きだったからか、記憶力はとてもクリアだった。

一方祖母は認知症を患い、少しずつ日常生活でも支障が出るようになってきた。

そんな二人は、動くことは祖母担当、記憶力は祖父担当、というように支え合って生活をしていた。

隣には母の弟が住んでおり、毎日様子を見に行ってくれていたし、近所には毎日のようにお茶を飲みに寄ってくれる祖父母の友人がたくさんいた。


お盆はこの庭で花火をするのが定番行事


ある日叔父が家を訪ねると、2人とも倒れていた。

祖父は残念な状態だったが祖母はまだ息があった。

祖母は病院へ運ばれて治療を受け一命を取り留め、大丈夫だろうと言われていたのに急変し、日をまたいでから息を引き取った。


つまり、祖父は癌の進行により自宅で息を引き取り、それに驚いた祖母はショックで倒れ、持病も関係していたようで、後を追うように亡くなった。


二人三脚でずっと支え合って生活してきた2人。

祖母は1人残されても生活出来なかったと思う。

きっと祖父が、一緒に行くべ!って連れていってくれたんじゃないかな。


お葬式は一回で、遺影は2人並んだ笑顔の写真を一つ。

親族が驚くほどたくさんの人が参列しにきてくれていて、2人がみんなに愛されていたことに感謝が溢れた。

残された私たち家族は、大好きな祖父母を急に同時に亡くしてしばらくは心の整理がつかなかった。

けど、時間が経つにつれて心から思う。


人の人生、愛の形、亡くなり方はそれぞれあるけれど、祖父と祖母は幸せな最期だった、これが2人の愛なのか、と。


そんな2人を誇りに思うし、その血を継いで生を受けている自分もなんて幸せなんだと思う。

わたしにはその祖父母がいつも見守ってくれている感覚がある。

いつも本当にありがとう。


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