家族ってなに?vol.11 〜苦痛の授業参観〜
小学校で嫌だったことはもう数え切れないことあった。
その一つが「授業参観」
【嫌いな理由】
①来るのはもちろん母一人
父はもちろん仕事。母しか来ない。
母は一人でしまい二人の教室を往復する。
限られた時間、離れた教室を往復する為に母が1人の教室に滞在できる時間はいつも5分〜10分
1教科全部いたことはない。
②そもそも来れる日程ではない。
授業参観は基本土曜日。
自営業(飲食)もちろん土曜日は混む。猫の手を借りたいくらい混む。
しかも、大体10時〜12時。
仕込みやらなんやらで来れるはずがない。
③正装してくる母の服装がダサくて嫌だった。
本当に最低なことだが、昭和のスーツみたいな感じで本当に恥ずかしいと感じてしまった。
だから、授業参観は嫌いだった。
先生が朝の会で「今日は、お父さんお母さんが来るから手を上げて沢山発表しましょう」と言われてもやる気が出なかった。
この言葉が嫌いだった。
そもそもいつ来るか分からないし、来ても数分。
教室の中に入らず、外から見守るのが母のスタイル(教室入れないからそうなるんだが)
だから、発表しても見ないし、聞かないし、手も普段から上げるタイプではないから嫌だった。
みんなは親に手を振ったり、後ろを頻繁に向いていたが私は首を動かすことさえも錆びれたロボットのように動かなかった。
手なんて重りのように様に重く机と手が接着剤で張り付いたようにくっついていた。
あの独特な授業参観での雰囲気がそうさせていたのだ。
先生の親からのプレッシャーを受けながらする緊張感しかない授業。
生徒たちのプレッシャー。
親達からの刺さるような視線と期待とプレッシャー。
先生を査定するような視線。
この子の親は誰?と自然とマウントを取るための準備をするような空間。
誰々の親はきてないの?というプレッシャー。
物凄く嫌だった。
ひたすら嫌だった。
人間の欲とプレッシャーだけが詰まった空間物凄く嫌だった。
ひたすら嫌だった。
そんなただでさえ嫌な空間なのに小1の正月明け今でも悪夢にも感じる出来事があった。
凧を親と一緒に作る授業だった。
事前に知らされていたが親が確実に来る保証はなかった。
だから当日まで相当ドキドキしていた。
来てくれるかなという期待と不安でいっぱいだった。
だが結果は11時ごろということもあり親は来なかった。
教室ではみんな親と楽しく作っていく。
親が来ていないのは私ともう一人くらい。
私は平気なふりをして黙々と作業した。
それが精一杯の強がりだった。
他の親からのこの子の親は来ないんだという無意識に注がれる哀れみの視線。
生徒からのなんでこの子の親は来ないの?という疑問と哀れみの視線。
先生からのこの子達のサポートをしないとという焦り。
そんな先生から出た「親御さん達は他のお子さんのお手伝いもしてあげてください」という同調の言葉は私を一層苦しめた。
先生の優しさかもしれない。
でも。それは哀れみを増長させるようにしか感じれなかった。
その時の親達の無意識に向けられた感情。それは幼い私には容易に感じとれてしまった。だから無言で黙々と作業するという防御をはった。
私は平気ってただそれを表したかった。
時折、近くの席のお母さんが助けてくれた。
ありがとうございますって精一杯答えた。
その後外で凧をあげてみることになり校庭に出た。
みんなは親子でわいわいきゃっきゃと遊んでいる。
私は気を遣って友達のところにも行かず一人であげた。
今までの人生で後にも先にもあんなに孤独で恐怖で哀れみの視線に耐え楽しいと一瞬も思えなかった凧揚げはない。
そんなこんなで授業参観は本当に嫌だった。
親が仕事を無理に抜け出してくる授業参観。
ある日いろんな感情に振り回される自分が嫌になり、無理に来る親にも申し訳なくなり小学校3年のある日私は「親に授業参観はもう来なくていい」と言った。
その言葉以降母は本当に来なくなった。
親の負担が少しでも少なくなればいいという気持ちが一番大きかった。
だから母の負担が減ってよかったが
祖父と祖母はもちろん良い顔はしなかった。