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キリンジ『十四時過ぎのカゲロウ』と『ダンボールの宮殿』解釈

 もしもキリンジの夏ソングランキングがあるなら堂々一位を獲るだろう『十四時過ぎのカゲロウ』。ちなみに二位は『冬のオルカ』なんだけど共感してくれる人いるかなあ?曲調もそうだし「褪せたシートに涎たを染めたまま」「は今遠く 遠く遥か向こう」題に反する二度の夏。
歌詞通り季節を滑るような歌で、俺なんかは夏っぽいなあと思うんで、ここらへんの解釈多様性もキリンジの深みだとしつつ『冬のオルカ』はまた今度。ついでに夏ランキング3位の『汗染みは淡いブルース』もまた今度。


十四時過ぎのカゲロウ

「シャツを脱いで 密かに生まれかわるのさ」とシャツ=規定からの解放が示唆される。規定されている僕は丘=地獄より熱いプールサイドで苦しんでおり、真実の「僕」を求めて泳ぎ続ける。「遠く遠く遠く遠く遠く果てる日まで ああ 泳ぐだけさ」
 一見ポジティブに聞こえるこの歌詞も、カゲロウのイメージとは相まみえない。儚い命の例えとして蜻蛉の命という語があるぐらいに蜻蛉の寿命は短く、陽炎もひときわ暑い真夏にのみ発生する現象。翳ればすぐにでも消えてしまう。
 シャツを学生服のシャツだと捉えて「僕」を水泳部に所属する高校生だと考えると、水泳に全力をそそげる時間は残り少ない。長く見積もっても大学生までで、それ以降、泳ぐだけの人生はプロにでもならない限り不可能。真実の僕を見つけるのは簡単じゃない。この曲にはそんな儚さが込められていると思う。

ダンボールの宮殿とホムンクルス

 (ホムンクルスについてネタバレあり!注意⚠️)

 真実の自分を追い求めたが失敗した男の末路が『ダンボールの宮殿』の俺。地獄のような社会をタフに生きてきたものの、逮捕された詐欺師かあるいは。
「砂漠の雪ならひと匙いくらで売れる? 祈りはとにかく高くつく 世の常さ」冒頭から悪意が滲み出る。祈りを砂漠の雪に例える比喩の妙は『千年紀末に降る雪は』の「砂漠に水を撒くなんて おかしな男さ」を想起させる。「ごらん神々を 祭りあげる歌も 貶める言葉も今は尽きた」キリストもアンチ•キリストも俎上に載らなくなった現代=砂漠のイメージ。
 では『ダンボールの宮殿』の砂漠を信仰の無い土地だと解釈するところから出発して、エセ宗教で荒稼ぎする詐欺教祖の栄枯盛衰の歌と捉えてみると「ダンボールの宮殿」とのタイトルとはマッチする。「宮殿」の言葉選びの淵源をエセ教祖の立場に見ることで、「ダンボールの宮殿」が男の自意識をシニカルに抉る。「名を騙った祟り はたまたま債務の亡霊」突然出てくる超自然的なフレーズとも相性がいい。

 とはいえ「私服の刑事はカジュアル」や「仕事も家も今はもう無い」らへんの歌詞から推すと、まっくろな詐欺行為を働いていたというよりかは、グレー寄りの犯罪行為を働いていたように思える。
 『ホムンクルス』という漫画では、外資系金融に勤めていたエリートの主人公がとある出来事から大きな金額を動かす人生に違和感を覚え車上生活を始めるのだが、『ダンボールの宮殿』と似ているなあと思う。もっとも、ダンボールの宮殿の方は自己都合で退職したというよりかは、なんらか法的な問題を経ての退職だろうけど。外資系金融ならインサイダーとか?無知だからわかんねえや!インサイダーだろ 
 インサイダーの曲だろこれ

プロモータらは席を立つけどさ……

仕事も家も今はもうない 俺は俺でしか無い Thank you for let me be myself!

キリンジ『ダンボールの宮殿』

 負け犬の遠吠え!清々しい!
『ホムンクルス』の主人公が仕事に違和感を覚える契機となったのは、たまたま乗ったタクシーの運転手が自分の潰した企業の元社員だったこと。
 大きな金を動かす仕事は大きな社会貢献をする一方、その裁量一つで他人の生活を破壊することもある。現代の競争社会では仕方のないこととはいえ、学生時代に努力して高給の業界に就いたものの、そういった競争の苛烈さにギブする人はそこそこいると思う。これが本当に俺のやりたかったことなのか?これが俺のやるべきことなのか?と自分に問いかけてしまうような人......『ダンボールの宮殿』の「俺」もそのタイプだったはずだ。



(競争社会において他社を窮地に追いやる人間が自分自身を蔑ろにしているとは主張しない。金を稼ぐこと、務める企業の利益を最大化することが「自分」であるだけだ。また、激務の中で心身共に疲労しながらも生活のためにその職を続ける人もたくさんいるだろうし、そこには自分を探す生活の即物的な苦しみとは別の艱難辛苦がある。自分探しは古来より芸術の範囲で語られることの多いテーマだと認識しているが、その理由はとにかくとして、俺自身芸術の範囲で語られる「自分」には副次的な興味しかない。仕事にでもなく、芸術にでもなく、ー俺から見ればー漠然とした生活全般に「自分」を見出している市井の人々の川を眺める眼差しに興味がある。
 大江健三郎『静かな生活』では、重藤さんの奥さんがなんでもない人という言葉を用いる。語り手のマーちゃんはそれを聞いて、イーヨーを特権化していた自分のありようを反省する。大江自身の眼差しにも色の自己反省が澱んでいる。と俺は思う。なんでもない人のイメージに続く、ウィリアムブレイクの「怒りの大気に冷たい嬰児が立ち上がって」。『新しい人よ眼ざめよ』を構成する一つの短編の表題になっているこの詩の嬰児のイメージ。「六千年の間、幼くして死んだ子供らが怒り狂う。夥しい数の者らが怒り狂う。期待にみちた大気のなかで、裸で、蒼ざめて立ち、救われようとして」生まれてすぐに死んだ子供たちのイメージ。重藤さんの奥さんは、自分を特権化せず、なんでもない人と生きる限りは余裕があるとの旨をマーちゃんに伝える。市井の人は、自分を特権化せずなんでもない人として、「自分」と向き合っている。退潮する薄暮が茜色の手を振る川沿いで「自分」をぐっと直立不動にして、髪を風=時間に靡かせているあの姿に興味がある。)



『十四時過ぎのカゲロウ』の僕は、規定されるのではない真実の「僕」を追う。だが、追うのは影で、捕まえることも出来ない。

水の中に僕の影を追う 捕まえたと思えば逃げてる All I want is just truth

キリンジ『十四時過ぎのカゲロウ』

 学生時代の自分探しは許されても、それ以降は許されない。社会の真ん中で仕事をしようものならむしろ打たれ弱い個の意識なんてかなぐり捨てて戦い抜く精神を求められる。『悪玉』だってそう。悪玉(ヒール)が自我を出せば、プロモーターらは席を立つ。でもさ、お前の無垢なる笑顔を見出せたらそれでいいんだよ。

 仕事を失いお先真っ暗になっちゃったけど、「俺」はほんとうの「俺」になる。それでいいじゃん。ま、実際生活は苦しくなるんだけど。いいじゃん!
「僕」はもしかしたら「僕」を見つけらんないかもしれないけれどさ、若い頃に夢中になって自分を探す時間って何事にも変え難く貴重で美しいじゃん。いいじゃん!
『ダンボールの宮殿』と『十四時過ぎのカゲロウ』は俺にとってそんな感じの曲。


 まあこんな感じで、学生時代の自分探しソングを『十四時過ぎのカゲロウ』、社会に出てからの自分探しソングを『ダンボールの宮殿』と考えて一つのNOTEにまとめたわけだ。でもこれじゃあ、本当の「自分」とはなんなのか?本当の「自分」を見つけた先の姿とは?根源的かつ普遍的な問いを等閑に付したままだと。それじゃ終われないと。はは。安心してください。キリンジ様は明々白々答えていらっしゃいます。

赤いシャツのバッファロー!「四の五のいうなよ、来やれ!」

ははは、来やれ!

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