さらば河村市政・期待と失望と混迷の15年を振り返る<下> 関口威人の「フリー日和 (⌒∇⌒)□」
(※ 本記事は2024年11月9日のニュースレター配信記事のnote版です)
皆さんご存知の通り、前名古屋市長の河村たかしさんは衆院選愛知1区で圧勝。15年ぶりに国会議員に返り咲きました。
10月27日の投開票日は僕も河村事務所に張り付き、バンザイから水かけ、そして開票速報を眺める河村さん(笑)の映像を撮りに行きました。
共同代表を務める日本保守党は計3議席を獲得し、得票率で政党要件を満たして国政政党化。
一夜明けた28日朝、「昨日の夜中のヒャーボール(ハイボール)はうまかったわ」と満足そうに自宅を出てくる様子までを追いました。
それはそれとして祝意を表し、本題の名古屋市政の振り返りに戻ります。
前編では、いわゆるトリプル選挙後に東日本大震災が起こるまでの流れを書きました。僕は震災でNPOベースの活動に入ったので、市政取材からはしばらく離れることになりました。
しかし、やがて名古屋の環境情報紙の編集長を任され、市の環境局などに個別に取材に通うようになりました。市政全般にも関心が戻ったところで、河村さんがまた大騒動を起こしました。「南京発言」問題です。
海外メディアも会見に駆け付けた「南京発言」
2012年2月、河村さんは姉妹都市交流で名古屋を訪れた中国・南京市の関係者との懇談で「いわゆる南京事件はなかったのではないか」と発言しました。
「いわゆる」というのは、河村さんによれば戦時中の日本軍が南京で「30万人の大虐殺」をしたとされているから。河村さんは最初の国会議員時代から「30万人もの大虐殺はなかったのではないか」と公言しており、このときも日中両国で意見の隔たりが大きいこの事件について自治体レベルで率直な話し合いをしたい(実際には討論会が企画されていた)という文脈の中で出てきたそうです。
しかし、これが「日本の大都市の市長が南京大虐殺を否定した」として伝わり、大騒ぎになりました。
僕は発言そのものは聞いていませんでしたが、1週間後に開かれた定例会見に参加。そこには国内の週刊誌(下は当時まだ名古屋支社のあった東洋経済の記事)をはじめ、香港の衛星テレビ局のクルーも来て河村さんに発言の真意を問いただしていました。(余談ですが、こういうこともあるから日本の記者クラブもいちいちメディアや記者を選別・排除してると世界から笑われますよという例です)
当時、河村さんはあくまで日中の「友好のため」だと釈明していました。「30万人」という数字が独り歩きして、中国国内の反日感情が高まるのを黙って見ているわけにはいかない。話し合いをしてお互いに歩み寄ろうと。それはその通りにできればいいと思います。
河村さんがこの問題にこだわるきっかけも、南京で終戦を迎えた「オヤジ(河村さんの父)」が戦後、「南京の人たちには本当に世話になった」と感謝を表し、戦友たちとカンパを募って「桜の木を1000本、南京市に贈った」からだそうです。「30万人の大虐殺」があればそんな関係が築けるかと、極めて個人的な心情から河村さんの歴史観は始まっています。
ちなみに上のエピソードは『おい河村! おみゃぁ、いつになったら総理になるんだ』という本に盛り込まれていますが、その続編的に作られたのが僕も関わらせてもらった『名古屋発どえりゃあ革命!』です。
トリエンナーレ騒動でむき出しになった右傾化
ところが、当初はまだ控えめな印象だった河村さんの「保守性」は、やがてむき出しの「右傾化」となって顕 (あらわ) になります。
2019年のあいちトリエンナーレでの騒動がその最たるものです。
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