#1とっちらかってる〜整理整頓中〜
「知嘉=人生=賜物」
「賜物」ってなんだろう。って、クリスチャンになったら誰もが考えることだと思います。また、誰もがその扱い方や置き所、飾り所を考えては、頭を悩まして来たことでしょう。
「この絵画は玄関に飾るべきだ。」
「この炊飯器は冷蔵庫の横の棚にでも…」
なんて風に。
ふと思い浮かんだジョークはさておき🙈
「神から賜った物」→「賜物」。ということ。
なにもその人が得意とするもの、というスキルや技といったものだけではなく、その人が歩んできた人生、それまでに出会ってきたすべての物語が、まるっとそのまま「賜物」なのではないでしょうか?
また、こんな風におっしゃる方もいました。
「牧師なら説教を"する"事が賜物。」と。
学生なら勉強を、子供なら遊びを、社会人なら仕事を"する"事が賜物、といったものでしょうか?
何ができるできないではなく、"する機会“が与えられている事自体が「賜物」なのだという認識かと。鳥肌です。
「井の中の蛙、大海を知らず。」という言葉が日本にはありますが、大海を知ったつもりが、それすらも井にすぎなかった。なんて気分ですw
何度井を大海と勘違いしてきた事か…😇
が、この事すらもまだまだ井にすぎないであろうとも思わされております。
神様、偉大過ぎやしません?
TONI KAKU,
「賜物」についての認識がさらに変わりました。っていうお話です。
今住んでいる家、今やっている仕事、与えられた家族や信仰の兄弟姉妹達。はたまたこれまでに与えられてきた人生・試練の全てが「賜物」なんだなと。
正直、1人で片付けるには大き過ぎるなと、何年か前から薄々感じていました。この“荷物“(という名の試練の日々)。
けど、それもそのはず。そもそも聖書にはこう書かれてありました。
何が言いたいかというと、僕はこれを1人で抱え込んでいるからダメなのです。
“われわれ“の形として…“われわれ“という交わりを持つ主の形に似せて造られたのに、1人で抱えるからダメなんだなと。そういうことです。
(ただ今、全体的に何を言いたかったのかを忘れる、あるある状態に陥ってます😇)
そうそう、今回の題名にあるやつ。
「知嘉=人生=賜物」について。
要するに全てが、文字通り「全て」が賜物なんだろうなと思わされているわけです。そしてこれを今後どうするかについて…。
聖書にはまたこうも書かれてありました。
他にもこの前の節では、
「祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」
4:7
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。」4:8
とも書かれてありまして…。
(こんな良いところで下書きのデータが一部消えるというアクシデント😂😭)
でそう、上記のように書かれてあるわけで、僕も賜物を与えられた者として、それを相応しく管理して、用いていきたいのです。支え合いたいのです。
その為にも先ずは日々心を整えて身を慎み、また、互いに熱心に愛し合う選択をしたいと願わされております。
また、上記で「1人で抱えるからダメなんだな」とあるように、ぜひともこれを皆様にシェアさせていただいて、かつこれを覚えて祈っていただければなと思っております。
ふぅ…。
ね?とっ散らかってるでしょ?
学生時代いかに手を抜いて、楽をして来たかもまさに丸見えですよねw
頭が回らなくなって来た所で、書きたい事は大抵書けたので、今回はここまで。
また今度お片付けします。
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