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二回りの世代差を超えてSNSムーブメントに参戦することの難しさ〜安倍首相の「うちで踊ろう」炎上に思うこと
今更ですが、炎上した安倍首相の動画、見てみました。
友達と会えない。飲み会もできない。
— 安倍晋三 (@AbeShinzo) April 12, 2020
ただ、皆さんのこうした行動によって、多くの命が確実に救われています。そして、今この瞬間も、過酷を極める現場で奮闘して下さっている、医療従事者の皆さんの負担の軽減につながります。お一人お一人のご協力に、心より感謝申し上げます。 pic.twitter.com/VEq1P7EvnL
星野源さんの「うちで踊ろう」に参加するにあたり、「音楽でコラボレーション」という文脈を読まず、星野源さんの歌を単なるBGMにしてくつろいでいる様子が反感を買った、つまり「歌いも踊りも演奏もしていないくせにこの流行りに乗っかってきた」というのが炎上理由の一つだったと理解しています。
もちろん理由はそれだけではないのですが、他の理由で怒っている人たちのコメントを見ても、「優雅に」「コーヒーを飲み」「リラックスして」「犬と戯れる」姿への反発が目立ちます。
同じ自宅が背景だったとしても、添えられたメッセージが一語一句変わらなかったとしても、もし安倍さんがメロディに合わせてピアノの一つでも弾いていれば、世間の反応はだいぶ違ったんじゃないかと思うのです。
じゃあなぜ安倍さんは歌いも踊りもせずに「優雅な」おうち時間を発信してしまったのか。それはもう単純にジェネレーションギャップだったのではないか、というのが本記事のテーマです。
はじめに〜おことわり
はじめに私の立ち位置をお話しておきますと、私は政治的に中立です。本記事の目的は、安倍政権やそのコロナ対策の是非を問うことではありません。
またIT業界に身を置いており、「仕事のために外出せざるを得ない」「医療現場や生活インフラを支えている」あるいは「自粛で営業できなくなり打撃を受けている」業種には属していません。
そういった方々が経験されている痛みや怒りは私の想像を超えており、私が代弁できるような話ではないと思うので、様々な問題は脇に置き、「65歳、かつ年配の人たちに囲まれてきたであろう職業の人が、若い世代に響く言葉を探して模索している」という一点に絞って話をしたいと思います。
安倍首相と星野源さんの歳の差は26歳
動画を見た時、私も思わず苦笑してしまいました。何とも言えない場違い感。星野源さんの歌が、完全にBGMと化してしまっている違和感。
でも。SNSカルチャーや音楽文化に関して初心者であろう65歳のおじさまが初めて挑んだコラボ動画だと思うと・・・私はむしろ微笑ましさを感じました。
安倍さんと同世代の長州力さんがTwitterを始めて、「ハッシュドタグ」と呟いていたのに通じるような。
少しづつですが親切な人達に教えてもらいながらTwitterの機能を勉強してます☀️
— 長州力 (@rikichannel1203) March 12, 2020
まずはハッシュドタグ☺️
井長州力
安倍さんは65歳。一方で火付け役の星野源さんは39歳。そこには二回り以上の歳の差があります。
親子くらい歳が離れた世代に届けたいメッセージがあるとして、彼らが共有している文化的文脈やコミュニケーション手法をきちんと理解しつつ会話に参加するのって、やっぱりかなり難しい。
もちろん一国の首相っていう仕事は特殊なわけで、世代だけで括るわけにはいかないのですが、それでもこの15年ほどでエンタメ領域に起こった変化の大きさを考慮せずに安倍さんを批判するのはちょっと酷だと思っています。
「誰もが自分なりの形で創作活動に貢献できる」という感覚を私たちは共有している
この動画を見て「首相には想像力が足りない」と揶揄する声もあったけれど、私たちのその想像力のベースには、YouTubeの「歌ってみた」動画とか、ニコニコ動画で初音ミクが育っていった過程とか、そういう「コラボレーション」文化に触れてきた経験があるんじゃないかと思います。
別にYouTubeやニコ動のヘビーユーザーじゃなくても、私たちは多分そんな文化の空気をどこかで吸ってきた。
2013年に流行した「恋するフォーチュンクッキー」とか:
2014年のアナ雪の口パク動画とか:
2016年の恋ダンスとか:
いわゆる「一般人」が、ヒット作に自分のパフォーマンスを重ねたものをSNSで公開する。そしてその中でも特に優れたものは、物凄い勢いで拡散されていく。そしてそんな盛り上がりが、作品自体の知名度も押し上げていく。そんな光景は、もはや見慣れたものとなりました。
誰もが少しずつ「創作活動」に貢献できる。プロじゃなくても、自宅で部屋着で撮影したものでも、良いものは認められる。例え上手くなくても、その実力に見合った拡散力の範囲で誰かを楽しませることができる。自分なりの演奏やパフォーマンスを重ねることは、作品への愛の証であり、元の作品を盛り上げることにもつながる。そうやってみんなで一緒に何かを作り、共に楽しめるプラットフォームが存在する。
私たちはこの15年ほどで多かれ少なかれそんな感覚を身に付け、その世界観に馴染んできたわけです。
「エンターテイナー」と「受け身の鑑賞者」とのギャップ
そんな感覚がベースにある人たちにとって、「星野源さんの動画」や「それに合わせて演奏したり踊ったりする人たちの動画」と、「座って本を読んだりテレビを見たりする安倍さんの動画」の間には、見過ごせない大きなギャップがあったわけです。
「画面の前の人を少しでも楽しませようとする側」対「自分が楽しむだけの側」、「参加者」対「傍観者」。その二つの姿は対照的であり、「受け身の鑑賞者」に徹する安倍さんの姿が悪目立ちしてしまいました。
「うちで踊ろう」に参加したクリエーターには「自分を積極的に魅せよう」、自分も一緒になって「作品を作ろう」という意識、いわば「舞台に立つ人」としての意識があったと思います。
一方でおそらく安倍さんには(完全に想像ですが)、それが単に「うちで過ごす時間を思い思いに楽しむ人たち」に見えていた。
「こんな状況であっても自分が好きなことをしながら、自宅にいる時間を前向きに楽しもうとする姿」とうつった。踊るのが好きな人は踊り、歌うのが好きな人は歌い、犬が好きな人は犬と戯れ、本が好きな人は本を読む、という具合に。
視線が視聴者の方を向いている「エンターテイナー」と、犬や本を見ている「優雅な鑑賞者」のギャップに気づかないまま、「動画の中」が舞台になっていることに気づかないまま、「他人が作った作品を消費するだけの側」に回っている自分を同列に並べてしまった。
でも、それは無理ないことだと思うのです。自宅で「音楽に合わせて踊る」ことと「音楽を聞きながらコーヒーを読む」ことがここまで異なるメッセージを発し得るようになったのは、かなり最近の出来事だったから。
かつて「CDを買ってBGMにすること」は、「踊ってみること」より力をもつ応援手段だった
YouTubeが産声をあげたのは2005年、ニコニコ動画は2006年。初音ミクの誕生は2007年のことでした。安倍さんは既に50代に入っていました。
50歳までに身に付けた感覚をどれだけ簡単にアップデートできるものなのか、私にはよく分かりません。でも、年配の人と接することが多いであろう「政治家」にとって、それはきっと簡単ではなかっただろうと思います。
インターネットが世の中をどう変えたかみたいな話になる度に散々言われてきたことですが、かつて音楽やエンターテイメントは、もっともっと一方通行のものでした。
もちろん一般人でも、「歌ってみる」「演奏してみる」チャンスがなかったわけではありません。私自身合唱コンクールで「空も飛べるはず」を歌ったり、学園祭で「群青日和」を演奏したりもしました。
でもそれは、学校関係者や家族友人の間で完結するものだったし、それがスピッツや東京事変に届いたり、ましてそのアーティスト活動に貢献できたりする可能性があるなんて、1ミリたりとも考えられませんでした。
当時、アーティスト活動に確実に貢献できる手段といえば、CDを買うことでした。ミュージシャンの成功は、何はさておき売上枚数で測られていて、「ミリオンセラー」がヒット作とそれ以外とを分ける重要なベンチマークでした。
カラオケランキングも発表されていたし、ライブの動員数も話題に上ったりしたけれど、それはやはりオリコンのセールスランキングに連動したものでした。大事なのはCDの売れ行きであり、それはもうほぼ100%、曲の知名度とイコールでした。
私自身、大好きなバンドのシングルが発売されれば、例え既にアルバムで持っている曲であっても改めて買っていました。ファンならば、過去のアルバムやレンタルで済ませるわけにはいかない、CDで所有することに意味がある、そんな謎のプライドがありました。
踊ってみたり演奏してみたりアレンジを加えてみたりすることよりも、CDをBGMにただ座っていることの方が、曲の知名度やヒットに貢献できた時代。CDを買ってきて、家でコーヒーでも飲みながら聞く。それがアーティストへの何よりの応援の形だった時代が確かにありました。
「発表の場」は、完成されたものを披露するハレの舞台だった
さらにいうと、当時「発表の場」は「ハレの舞台」でした。
一般人でも、例えば「ピアノの発表会」に出ることになれば、自宅での練習を重ね、一丁裏のドレスを着て、音響設備が整ったホールの楽屋で出番を待ちました。舞台上で披露するのはあくまでも、完成された最終形のものでした。
このタイプの「ハレの舞台」はもちろん今も健在で、当時に限った話ではないのですが、少なくともそれ以外の「発表の場」はとても少なかった。
例えば「遊ぶ余地のあるアイディアや未完成の素材を差し出す」「それを受け取った人がアレンジする」プロセスは、舞台裏に属するものでした。自宅でのカジュアルな演奏風景は、「舞台に立つための練習風景」でした。
そんな舞台裏や練習風景を人様に見せる文脈って当時あったかな・・・と考えていて、ハッと思いつきました。これって全部「メイキング映像」だなと。
ライブの楽屋で談笑したり打ち上げで乾杯したりしている。あるいはレコーディングスタジオで何度も録り直したりその場でアレンジを加えたりしている。そんなアーティストたちの「素の姿」を流すのは、メインコンテンツに付随する「特典映像」の特権だったなと。
おそらくSNSのややこしいのは、「舞台」的なものとそれ以外のものとが、ラベリングされずに混ざり合っているところなんじゃないかと思います。「舞台」や「その舞台上にいるのにふさわしい振る舞い」と、「不適切な振る舞い」とを見分けるシグナルが、「衣装」や「会場」のような単純明快なものではなくなっていて、それを見分けるリテラシーが安倍さんには欠けていた。
安倍さんの今回の動画は、明らかに「舞台」に属するものだった。でも安倍さんはそれに気づかず、あるいはこの動画における「舞台」にふさわしい佇まいがどんなものか分からず、「オフっぽい顔を見せること」に徹してしまったのではないか。
チャレンジ精神
安倍さんはきっと、コラボ動画の意味があまりよく分かっていなかった。
でも分からないなりに、若い世代にどうしても届けたいメッセージがあって、慣れた発信手段じゃ届かない層がいることを知っていて、彼らの会話に入る方法を模索していた。
そんな中で「うちで踊ろう」を見つけて、「あぁこれは、家での時間を充実させようとしてる自分の様子を隣に貼り付けるんだな」って解釈して、やってみた。
そんなチャレンジ精神を、私たちはもっと認めてもいいんじゃないかと思っています。
今回の騒動に関しては、「星野源さんの歌をただのBGMとして扱うなんて、音楽に対するリスペクトがない」という声も上がっていました。
でも、音楽ファンにできる貢献が「音楽をBGMにすること」くらいだった時代に育った安倍さんは、現代の「リスペクトを表現するお作法」を知らなかっただけなんじゃないのかなと。私にはそんな風に思えます。
終わりに
以上、「YouTube以前」の世界を覚えている人間の勝手な想像をお届けしました。
さて。言うまでもなく、私たちは今時代の大きな変わり目に立っています。
これまでの10年や15年と同じく、価値観とかお作法とか感覚みたいなものが、これからもどんどん変わっていくんでしょう。
「アフターコロナ」がどんな世界なのかはまだ分かりませんが、少なくとも私は過去の変化から沢山の恩恵を受けてきました。無名の一般人である私でも、こうやって小さな発信の場を持ち、誰かの投稿をそっとシェアすることもできちゃう。とても素敵なことだなと思っています。
最後は、かつての学園祭でなし得なかった1ミリ、いや1マイクロか1ナノくらいの貢献の可能性に賭けるべく、一本の動画をシェアして締めたいと思います。
イントロつけてみました!🎶😊😊😊
— 亀田誠治 Seiji Kameda (@seiji_kameda) April 6, 2020
「うちで踊ろう」
星野源×亀田誠治
源ちゃん @gen_senden とオンラインでセッションしたよ!
みんなで踊ろう!#うちで踊ろう#StayHome #ベース pic.twitter.com/EC4sETFX07