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【エッセイ】ヌードか本棚か。見られて恥ずかしいにはワケがある
先生あのね。
『みきてぃ総合研究所』にて、「本棚ヌード論•検討委員会」が実施されました。
(注:私が孤独にくだらないことに思いを巡らすだけの活動です)
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開会(はじめに)
先日、私はSNSにこんな投稿をした。
ほぼ毎日本を読んでいるけれど、自分が選んで読んでいる本を紹介することにすごく抵抗がある。
ある意味ヌード見せるより恥ずかしい。
#共感できる人✋
すると、「共感する✋」という人が意外に多く、私は緊急で「本棚ヌード論検討委員会」を発足させた(一人でくだらないことを考えるだけです)。
その結果、「これは社会の真理として記録し、啓蒙していかないといけない」と感じ、こうしてPCに向かっている。
本と本棚の恥ずかしさ
投稿のコメントには、「わたしも恥ずかしい派」、「本棚は絶対人様に見せられない」など共感の声が集まった。
これはどういう現象か。
本や本棚は、ただの文章の集合体に過ぎないが、そこにどんな意味があるのか。
検討委員会では、次々に飛び出す言葉が(脳内)ホワイトボードに殴り書きされた…
惹かれる本は、心の鏡。
選ぶ本は、魂の暴露。
読んだ本は、脳の一部。
そして、本の集合体である本棚は、過去から現在、未来、そして自分の課題や憧れやコンプレックス、そんな自分の内面の陳列棚だ!
本棚が、さらにはお気に入りの本が見られてしまう状況は、差し詰めこういった状況か。
その陳列棚から、他者がスッと本を抜き取る。
ゆっくりとページをめくるごとに、ワタシの秘密の思考や趣味が露わになる。他者の視線が、その文字の上を、ジットリと這う。
それはまるで心の秘部をなぞられるような感触でもあり、ワタシは恥ずかしさに悶える…。
さて、私のSNSという小さな世界でも、一定の共感の声が挙がったということは、きっと世界中に同じように感じている人がたくさんいるのだろう。
そういえば、かつて著名な女性作家が、雑誌に「本棚を見られるのは嫌だ。それが母親であっても、殺意を感じる」という趣旨のことを書いていたのを覚えている。
それを読んだ私は20代だったけれど、「自分だけかもしれない」と感じていたあの恥ずかしさが、「自分だけのものではない」と知って、とても嬉しかった。
ちなみに、本棚は見る側も恥ずかしい。
はるか昔、あるお家のリビングでお茶をいただいているとき、私の目の前に本棚があって、目のやり場に困ったことがある。
その相手のお名前もおぼろげで、お茶を飲みながら話した内容は1文字も思い出せないのに、上品にお茶を飲む彼女の背景に並ぶ、本の背表紙に散りばめられた、「一瞬で心を掴む」「人が怖くなくなる」「嫌いな相手も」などの言葉が消え去らない。
本と本棚を見せることが好きな人たち
とはいえ、誰もが本棚を見られることが苦手なわけではなく、世界には2種類の人間がいる。
「自分が読んだ本を紹介することに、悦びを感じる人」と
「自分が好きな本を知られることに、恥ずかしさを感じる人」。
ちなみに、私はこんな話をしながら勝手だとは思うけれど、誰かが好きな本を覗き見したり、人に好きな本を紹介してもらうのは好きだ。
たとえば好きな人の家に行って、コーヒーを淹れてもらう間、うっすら日焼けした岩波文庫などがきれいに並べられた本棚を眺めているときは幸せだ。さらに、「みきてぃ。興味ある本があったら、持って帰っていいよ」とか言われると、非常に嬉しい(妄想です)。
たとえば小学生の娘に「おもしろかった。ママも読む?」と聞かれたら、なるべく読むようにしている(現実です)。
そういえば、あの時代(私の20代)は2種類の人間がいた。自分が好きな曲をカセットテープに入れて「聴いて」と渡してくれる人。自分が好きな本を「読んで」と渡してくれる人。
不思議だけれど、人に勧められた音楽や本のことは、記憶に残っている。その人を思い浮かべるとき、それらの音楽や本のことを思い出すし、それらの音楽や本に再会したとき、それらの人を思い出す。
本にしろ、音楽にしろ、堂々と勧めてくれる人は、自分に自信がある人だろうし、後めたさのない、良い人であることは間違いない。
思えば10代の頃から、私には常に本を勧めてくれる友人がいた気がする。中学のときに、小学校時代の早熟な女友達がアメリカに引っ越し、その後、なぜかアメリカから『アルジャーノンに花束を』(日本語版)を贈ってくれた。学生時代も、本を勧めてくれる人がいた。職場の上司にも、何冊か本をもらった。
多様で複雑なそれぞれの「ヌード」
ちなみに今回、「好きな音楽を知られるのが恥ずかしい」、「好きな画家を知られるのが恥ずかしい」というコメントもいただいた。
人それぞれの「ヌード」があるのだと思うし、やはり自分の好きな◯◯を紹介するのは、かなり特別な意味があるのだと思う。
私も全ての本を秘密にしたいわけではない。
人に勧められて好きになった本なら、公開しても全く恥ずかしくない。結構、自分勝手だと思うけれど、「人の裸」なのだから当然だ。
前述の体験からか、「自己啓発本」という存在には恥ずかしさを感じるけれど、自分が好きな「小説」を語ることはそれほど抵抗がないし、むしろ「これ感動したー!読んで読んで!」とかなりしつこく人に勧めることもある。
やはり読んだ本の話をすることは楽しい。
裸と同じで、全てを隠したいわけではないところが、複雑だなと思う。
すでに今、こうして本のことを書いていると、隠したいどころか、文章が止まらず、気分は露出狂だ。
恥ずかさし対策
実は私の本棚はほぼ空っぽで、見られて恥ずかしいものも、ほぼない。海外引っ越しが多いので、その度に重い本を持ち運ぶことに疲れて、溜めないことにしたというのもあるし、常に新しい本を読みたいというのもある。
うちの一角には、「バイバイする本」という段ボールが置いてあり、買って読んだ本はどんどんそこに入れていき、段ボールがいっぱいになったら、こまめに買取センターに送る。見られる恐怖もなく、部屋もスッキリして非常に快適だ。
閉会(まとめ)
そんなわけで、「本が恥ずかしい」という同志のためにも、「本棚ヌード論」を社会に向けて発信しておくべきだと考え、こうしてくだらない文章にまとめてみた。
そして今気づいた。本来、何を読んでいるかを知られるより、書いたものを人に見せる方が、よほど恥ずかしいべきだ。特にこうした、くだらない雑記こそ、品性も思考回路もすべてが丸見えで、露出される方も迷惑だと思う。
もちろん本当に見せられないものは、カギ付きのノートに書いているわけで、すべてを見せているわけではないけれど(これ以上くだらないものがある、というあきれ…。
でもね、なぜか、どれほどあきれられようと、くだらない文章を見せることに恥じらいは感じず、むしろ半分開き直りの快感すらある。
やはりある種の露出狂かもしれない。
ともかく、「SNSでコメントをくださった(=検討委員会にご参加くださった)皆様、ありがとうございました。
みきてぃ総合研究所・所長みきてぃでした。
*本記事は最近の事件を元にしたプライベートの遊び雑記です。
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