利己主義と自己愛②(余裕があるかないか?)
せっかくなのでもっと
掘り下げてみます
何ゆえにこの項目に
突き動かされたかということですが
結局自身が無意識にアンテナを
張っていたわけですから当然ですよね
単純に
哲学や心理学を追求していっても
一向に満たされることもなく
むしろ
永遠と繰り返される自身の空白部の
穴埋めを余儀される
知識を深めるということは
知らないを知ることになるわけですから
言い換えれば
自身の無知を露呈していくということ
つまり知的好奇心の裏には
隠された痛みと快楽の連鎖がそこには
内在しているということになります
・じゃあなぜ
知らないを知ろうとするのか
それは自身の弱さに対し
ある意味では
わかりやすく補填できる行為
自身の劣性を認め
それを埋めようとする
それ自体は何も悪い事でない
ないはずなのですが
仮にそれに取り憑かれていた場合
自身への受容、許容が認められず
終わりのないループに振り回される
その結果が
利己主義へと誘われる
無知の知を飲み込めたとて
無知の知に飲まれては本末転倒
受動的な知的好奇心は
果たして、好奇心なのか、ということです
・埋めるための知識は知識に非ず
活かすために知識はあって然るべき
ということはどういうことか
利己主義のフィードバック
そのベクトルは己自身にしか向いていない
閉鎖的で収束的
・では自己愛と何が違うか
自己愛もベクトルは確かに同じだが
そのフィードバックは他に向く
他から自が利己主義ならば
自から他が自己愛
雑なまとめ方をして良いのなら
余裕があるかないか
そういうこと、なのかもしれません笑
最後まで
お読みいただきありがとうございます