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劣等感を思い出した話と、それを消化できるようになった話


ついさっき買い物を済ませて家路についてる時、中高大と同学だった同期とすれ違った。

彼の顔を見たのは6年ぶりくらいだったが、目立つほどの高身長なので一瞬で分かった。

彼とは特に仲良くもなく、喋ったこともほぼないので彼はおそらく自分には気付かなかったと思う。

彼は頭もよく性格もよく運動もでき、女子にも人気があった。大学時代、授業の移動時間であっても彼の隣に女子の姿が見えないことはなかったほどだ。先程すれ違った時も女性と一緒に歩いていたので、昔見た光景と変わってないなぁと懐かしく思った。

僕は久しぶりに彼の姿を見ると同時に、彼に感じていた自分の「劣等感」を久しぶりに思い出した。


僕は多くの面で彼ほど能力が高くない。彼は僕には持っていないものをたくさん持っている。当時はこの感情をうまく認識できなかったが、今思えばこれは「劣等感」だったのだ。今更気付いたことが自分でも若干信じられないが、長年にわたり彼の姿を見て劣等感を感じていたことに、今やっと気付いた。

僕はこの「劣等感」に気づけたこと、思い出せたことが嬉しかった。

第一に、感情を長い間鮮明に保存しておくのは難しいからだ。人間は良くも悪くも忘れる生き物だ。特に僕は記憶力があまり良くなく、学生時代の記憶や感情は次第に解像度が薄れつつあった。陰鬱さを感じていた当時の感覚をありありと思い起こせたことがまず嬉しかった。

そしてもう1つ。今現在はこうした劣等感から解き放たれていることが嬉しかった。長年内向きでくすぶっていた僕だったが、音楽を通して人と関わる過程でかけがえのない学びを得ることで、価値観が大きく変わってきた。

僕のライフワークであるソロギターは、音楽をやる友達がいなかったから始めた活動だったが、何年も続けていたらギターを通して友達ができた。

音楽を聴くことが好きで、自分があたためていた「好き」を少しずつ作曲という手段で音の形にすることができるようになり、仲間と自分の「好き」を高い濃度で分け合うことができるようになった。心が通じ合った、と感じることができた。

今の僕は、自分のできないことを認めて向き合って、自分とうまく付き合っていけるようになった。そして自分を大事にすることが、他人の心も同じ様に大切にすることに繋がった。

今の僕には、久しぶりに思い出したこの「劣等感」も可愛がりつつうまく消化することができる。自分の成長が嬉しかったのだ。

久しぶりに「彼」とすれ違ったことが、自分の変化を俯瞰するきっかけになった。

長年のあいだ、彼に無意識に嫉妬じみた感情を向けていたのを申し訳なく思うけれど、もし今後の人生彼と話す機会があったとしたら、今の自分なら思いやりを持って接せると思う。

今はただ気負いなく、彼の幸福を願っている。

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