ほらそうやって、すぐに自分って成長してしまうものだからさ。
なぜ読書をしているのだろう。
何かわかりたいという欲求を抱えて生活していた。
中学生や高校生のときは、生きている意味を考えていた。
青臭い気もする。それでもその時の感覚と三十路を超えた今、それは地続きである。
書くことで自分が救われている。
落ち着いて、じっくりと向き合おうとすることができる。
自分がここに存在していることもわかる。
ああ、やっぱり僕は生きているんだな、という気がする。
話すこともそれはそれで、生の実感というものを得られる。でも、ちょっと得られすぎる。
ほどほどがいい。その方が長続きするから。
万が一これを読んでいる人がいたら、書いてみてほしい。
英語教育ではざっくりと四技能と言われている。
話す聞く読む書く。聞くのが多分一番簡単で、書くのが一番めんどう。
めんどうだから、やってみてほしい。
書いてみると驚くと思う。
自分が書けるということに。もちろんめんどくさいのだけれど。
僕は中学生の時にブログを作っていた。なんてことはない無料のブログで、コンテンツも何もあるわけではない。あるわけではないけれど、一丁前に日記みたいなことを書こうとしていた。全く書けなかった。
書けなかった理由は今ではよくわかる。もちろん、語彙の問題や経験の差などをあげることはできるけれど、当時の僕は自分がかけない、と思い込んでいた。書けなくて当然だと。
そうではないのだ。自分はその時から物を考えていたのだ。
それを言葉にするだけだった。格好つけすぎていた。
書いた文章を誰が気にしているわけでもないのに、読まれたくないがためにすぐに消しゴムで消すようなことをしていた。
美術的な意味で使う以外に消しゴムなんてこの世からなくなった方がいいと思う。
へたくそだと思った文章を読まなければ、書けない。そういう屍の上に自分は立っている。屍でもないか。それを屍にしてしまうのも自分だろう。
残念ながら自分は案外できるやつなのだ。できてしまう。あきらめる理由がない。
自分を見捨てることほど勇気のいることはない。他人に見捨てられても、かまうものか。と最近は考えている。
これは独我論だろうか。
むしろ見捨てる相手すらも拾い上げてしまえばいいと思う。
できないと思っていることは本当はできてしまうということはあまりにも厳しい現実である。