東のエデンにあこがれて

僕は一番最初のnoteに書いたように、ニートだった。
だから、というわけではないけれど、アニメの東のエデンにあこがれた。
何者でもないニートの僕だったけれど、今はノブリスオブリージュな発想で踏ん張った。

僕としてはそこまで変な話ではない。
ある時自分の賢さに気が付いて、勉強をした。そのまま大学に入って、今社会の歯車としてなんとなく生きている。
もちろん大変なことも多いけれど、大変なことをなんとかすることができるかもしれない、と思う土台には、東のエデンが影響している。

自分自身を信じるという点に関して、僕はなかなか下手だった。
人よりも遅いといってもいい。その点に関しては情けない、ということができる。
ただ、僕はこのごろ、やけに前向きだ。現実逃避をすることもなく、目の前の課題に対して、まぁもちろんめんどくさいな?と思わないわけではないものの、実直と言っていいほどの取り組みをしている。早く寝て早く起きて、毎日これを書いている点からも読者の人には理解してくれると思う。

何かにあこがれるということは、どんなにしょうもないことだと思えても、大事なことだと思う。そこから世界が始まるといっても過言ではない。
ただ、そのあこがれだけに拘泥することは、できれば避けた方がいい。
その物になる必要はないし、なれる見込みもない。簡単になれるものに、僕たちはあこがれることは困難かもしれない。
そうではなくて、絶対に自分には無理だと今の時点では何も考えなくてもそう思われるようなことに、それでも関係性を見出すということが、あこがれというものだろう。

素朴さということが重要だということに、なんとなく大学の時に気が付いた。
あまり自分の中で概念化できなかった。だって、素朴であればいい、という素朴な考えだからである。
身体論との兼ね合いで、最近はますます、素朴さということは重要だと考えている。
頭の中でどうのこうのするとか、いろんなことを気にして何もしないだなんてそういうことじゃなくて、素朴にやってみて、失敗したら素朴に謝罪すると。
取り返しのつかないことなんて山のようにあるし、慎重さということはとっても大事なのだけれど、気を付けたからといって僕たちはやらかさない保証はない、ということも挙げられる。
保守的な思考をもちつつ、生きてかなきゃならんのね。

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