徹底できないことだけ徹底できる僕が、書くことによってそれに抵抗をしている。
大谷翔平がテレビに出ている。
しばらく、ホームランがでなくて、苦しんでいたらしい。
いろいろなことが重なって、寝れていなかった。それは苦しい。
ホームランを打てばリラックスできるということで打った。
結果を出すと言うことは、救済に繋がる。
では、結果とは何か。
例えば、僕は今積ん読、積みゲーについて悩んでいる。
それが問題だと思っている。
ということは、僕の場合の結果とは、1冊本を読み終わるということ、1つのゲームをクリアするということ。
何のために?
積ん読や積みゲーが悪いわけではない。
時間は有限であり、ある程度コントロールしなければならない。
1日○分ゲームをする、というように、組み込むことができてしまえば、簡単なんだろう。
実際それで今はうまくいきそうな感じがある。ただそのままやる、とうこと。ひんやりしている。
ところが、今はたまたま冬のオフなので、時間があまっている。
ヒマだといえる。
ただ、人間は本来的にヒマなんじゃないだろうか。
ああ、結局暇と退屈の倫理学を読み返さないといけない気がしてきた。
中途半端なところで読み終わってしまっている。
いつもそうなのだ。自分らしいとは必ずしも良いことばかりでは無い、
結果にこだわることは大事なのだろう。
ただ、その結果はなんだという設定にみんなはどこまでこだわることができているだろうか。
僕の場合、noteについての結果は明確である
去年に比べて7倍ぐらいビューが増えている。
理由の一つはポメラとか、タスクシュートとか、他の人の需要がありそうなことを実際に取り組んでみたということ。いわゆるバズワードのようなものに乗っかっていたのだろう。
もう一つは、1000文字、10分、あと2,3分の校閲をする、ということを設定してそれを篤実に守り続けているということである。
読みやすさというか、自分の文体、考え方のようなものがちょっとは伝わってくれたのかな、と思う。
もちろん、日によって出来不出来はある。
ただ、すべてを貫いている思想のような物が少しずつ出来てきた。
できれば、弱者側の気持ちで書きたい。
できれば、ひょうひょうと書きたい。
でも、できないこと、弱さもある程度書いていきたい。
読んでくれる人が増えてきている。
僕も他の人のnoteを読むことが増えている。
そういうことも糧になっているのだろうか。