そぼろぼろぼろ。
太刀魚の骨は硬い。
ぱっと見たとき、そんなに太くないし、何より短い。
その骨がかみ砕こうとしても、おいそれと砕けない、しっかりとした骨だった。
身はほろほろで、箸で掬うとすぐに崩れた。
骨の間に、ちいさい身がくっついて離れない。
めんどうになって、骨ごと口に含んでみた。しかし、その自己主張の強い骨に気圧され、身と共に口から吐き出した。
骨になってまで抵抗しようという意志はもちろん太刀魚には無いだろう。
だけれども、僕を拒むその骨の強さに、生きている実感を感じた。
魚料理は昔から好きで、それらを食べることは昔から下手だった。
弟は僕とは逆で、魚を食べることはとても上手で、骨と身とそしてよせばいいのに皮まで丁寧に剥がしていた。おそらく食べたくないから、まずはその食べる準備をしているふりをして時間を稼ごうという幼心の抵抗だったのだろう。彼は回転寿司にいっても玉子しか食べなかった。最近は大人になったのか、サーモンも食べている姿をみる。
今でも回転寿司に行くと、値段の高い色の皿を取ることに戸惑いを感じる。
だからといって、安い皿をたくさん食べようとも思わない。
最近は食が細くなっている。食べようと思ったら食べることができるけれど、次の日のコンディションが悪くなってしまう。
後先を考えるようになった、ということだといえば、成長なのだろうけれど、後先をどこまで考えたらいいのだろうか。
一寸先は闇というところだ。明日がどうこう、来年が、うんぬん、よくわからない。
今から思えば、ということはたくさんある。noteを書いているとどうしても過去のことを振りかえっていたり、書いていたりしている自分を見つける。
未来のことを書くことが難しいというよりは、それは空想であって、一から作る必要があるけれど、過去のことは物語として僕はもうすでに知っているので、あとはそれをどう語るかということだからか。
僕が過去の僕と自分より少しだけ成長しているとすれば、物語る方法は一つではないということと、それはどうにでもなる、という開き直りを得ていることだろう。
昔は絶対だということを信じていた。
今では何を信じているか。踏みとどまって、次に進むしかないということだろう。
もちろん。次の方向は一方通行ではない。多様に開かれているし、間違ったらもどればいい。何も問題ではない、なんてことを考えている。
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