暇、そして暇。

走っている。
健康のために走っているとか、大会にでるためとか、そういうことではなくて、暇だということをかみしめるために、走っている。
仕事から帰ってご飯を食べてお皿を洗って、さっと着替えて2キロ走った。
家の近くのパン屋までちょうど片道1キロだったので、タッチして戻ってきている。
今日も時間を計って走った。大体11分だった。キロ6分といったところ。
大学の時のツレが走っている話をしていて、まぁ僕もジョギングぐらいはしているけれど、1キロ何分とか計っていないなと思ってやってみている。結構楽しい。
ただ、そいつがふと、走っているときは暇だ、ということを言っていた。だから何かを聞いたりしている、とのことだった。
その気持ちはわかるし、僕も家事をしているときなどは率先してラジオやポッドキャストを聞いている。

ただ、暇だと感じるということは悪いことでは無くて、むしろ人生の充実を意味するのでは無いだろうか、なんてことを思う。

僕はこうやって毎日noteを書いているとき、何も聞かずにぽちぽち入力している。時間は計っているけれどだからといってなんてことはない。
書くことは考えたり物思いにふけることができる。ただそれはひょっとすると副産物であって、本当の目的みたいなものは、僕は一日数分間だとしても暇だなぁと感じる豊かさの中に生きている実感を得ているということなのかもしれない。

そんなことを思いつつ仕事帰りに走った。
走っているから身体が軽いのか、それとも先ほどの解釈をたくましくして僕自身が暇を謳歌していることによろこんでいるのか。どちらかはわからないけれど、トンネルを通っている間笑みがこぼれた。夜に走っている三十路過ぎの男性が笑っていたらちょっとどころではないほど怖い。
走った後に1時間残りの業務をこなした。
いつもなら嫌な気持ちになっていたかもしれない。

でも僕は暇なんだ。嫌な気持ちになるということは、何か損をしたような、忙しさに追いやられてしまって心まで摩耗してしまっているような、そんな感じだろう。

だいたいのことは、僕は暇なのだ、と思ったり感じたりすることで好転してしまう気がする。暇ということは、率直に言って余裕の現れである。
僕は確かにブラック企業に勤めている。だけれど、それは暇だから務めているといえる。やることも他に特にないし、まぁ自分なりに工夫することもできる。暇だからね。全力を尽くすこともできるし、間違いに気がつくこともまた可能である。暇という概念の再発見を記念して、無音のまま(正確にはドライヤーの音が聞こえている)今日も暇を謳歌したよ。

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