悲しみの果ての優しさに。
僕はどうしても、その人の弱さのような物を考えてしまう。
だから、というか、日常的に人に腹が立つことが少ない。
もちろん自分自身にもあまり腹が立たない。いや、将棋に負けたときは腹がたってしまうか。
性善説を唱えているつもりなのだろうか。
いろんな事情があって、それが甘いということは可能なのだ。
それでも、むしろ甘さを認めなければいったいどこで踏みとどまればいいのだろうか、と強く思っている。
とても簡単に言うと、僕たちはどうしても失敗してしまう、ということだ。
うまくいかない。計画を立てても崩れる。宣言をしても守れない。
生きていると、失敗はつきものである。
ただ、将棋を指しているからそういうわけではないのだけれど、うまくいかなかったときこそ、感想戦が必要なのだろう。
もちろん僕も負けたときはかっとなってしまうような不出来なときもある。
感情の介在を否定することはできない。
そんなことをする理由もあまりわからない。
感情というものと上手に付き合っていかなければならない。
それは自他共にである。
一体どうすればいいのだろうか。
おそらく、曖昧なことが大事なのだろう。
論理や原理のようなものを当てはめようとすればするほど、逃げていってしまうのが感情である。
ただ、そういうものが全くなかったら、僕たちはどうしても自分たちを安定させたくなってくる。縛られたくなる。不思議な物である。
もし、感情が安定して落ち着いた物に成り下がってしまったら、
それはなんだか、合理とか、理論みたいな、自分の顔をしていない。
もちろん、感情だけが自分の顔というわけではない。
そこには、偶然性や悲しみとか、平凡さとか暇みたいないろんな要素が積み重なっている。
だからこそ、思うのだけれど、人に優しくしていきたい。
厳しくするということは、人をシンプルに考えすぎである。
厳しくする、ということはある限界を設定して初めて行うことが可能な営みなのだろう。誰彼かまわず厳しくする、ということは、人間の行うことでは無い。
もちろん、僕たちは人間では無くなることのほうが簡単である。
人間とは一体なんだろうか。
ある程度きちんとしていて、ある程度あいまいで、ある程度情けなくて、ある程度根性を見せてしまう。
あらゆる角度で不合理で、悲しみに満ちている。
ただ、そういうことを活字に出来る、と言うことに関しては、楽観的だといえる。
本当の悲しみは言葉にできないのかもしれない。
その一点でのみ、こうやって書くことの美徳を感じる。