限界を迎えられるのだろうか?
問題があることが問題ではない。
そのことは十分わかっているつもりだった。知っているつもりだった。
ただ、失敗したくない、と本能のレベルで思ってしまっている。
これは今の僕の致命的な弱点である。
これがわかったので、じゃあどうしよっか、というところである。
自分のコントロールですべてできるわけではない、という諦めを持っていればいいんじゃないだろうか。と、ふと考えた。
自分で何でもできる、と考えると、誰かに頼ることも難しいというか情けなかったリ恥ずかしかったりするのでやりづらい。
自分だけではむしろ無理だということの証明をする、という方向で努力してみるのはいかがだろうか。
これはどんな分野に当てはまるだろうか。
例えばこうやってnoteを書くというときに、適応されるだろうか。
僕が一人の力でいい文章、いいエッセイを書くことができるのかどうか、それはわからない。
僕自身の調子の良さ、ちょっとしたニュアンスの妙など運に左右される。
自分の力というものは運の影響を色濃く受ける。
また、環境(システム)の影響も大きい。
例えばこうやってぽちぽち打っているのはポメラだし、書く時間を計るのはスマホで、なんならタスクシュートクラウド2にもタスクを入れている。
自分の力を信じすぎないというか、適応範囲外にまで広げない。
もちろん、できることを増やすことや、できなくても挑戦してみるということは必要だろうけれど、自分の範囲を確認するためにそれは行われる。
じゃあ、どうしようか、という土壌はいったんその自他の区別を混ぜ合わせてしまうことなのかもしれない。
立場や条件があるのはわかった。わかったうえで、物事をうまくいかせるために、一体どうするだろうか、という話である。
自分がすごいというのは当たり前の話である。だから人権なんて話が受け入れられている。
問題はすごいことは、前提であって、答えでは無い。すごいから考えることができる。ということである。
題材やタイミングによっては頭が働かない時がある。
そんなときはどうやって考えたらいいのだろうか。
答えはとても簡単で、今は頭が働かないのでちょっと休みます、とかその辺の人に伝えること、エポケーである。エポケーの意味があっているかどうかわからないけれど、今僕は仕事おわりでこれを書いているのでその判断をエポケーする。
できてなさ、なさけなさ、どうしようもなさ、それもまたエポケーしてやれば、まるっと自分にまぜちゃうことができそう。