意味なんてないと開き直る意味はなくはない。

姪っ子とご飯を食べた。
人間はなぜご飯を食べるのだろうか。それも好みがあるのも不思議である。
何かを食べておいしいとか、口に合わないとか、食べ過ぎてしまったりなんなり。

お酒をやめてもう2か月ぐらいになりそうなところである。
お酒を飲むことにあまり感動はない。だから飲みたい!という欲求がストレス発散などからしかでてこない。
なんともさみしい話だろうか。寂しいとすら思わない。

エッセイ本を久しぶりに購入してモスバーガーで読んだ。
何かのために、意味があることをやる、ということは大事なことであるけれど、わからないことをわからないなりに書いてみる姿勢に感動した。
ロギングという考え方がなかなか根付かない、と思っていたが、それはロギングのハードルをあげているだけではないか、と思う。
何かの行為をするときに、スマホのメモにその時間と行為を書いてみる。
例えば
2045ノートを更新する
こんな感じである。問題はこれを徹底するのが少しめんどくさいことである。
そして一日が終わって数日後にロギングのことを思い出してちょっとだけ嫌な気持ちになっている。
この嫌な気持ちとはどこからでてくるのだろうか。
2045ノートを更新する
2055明日の用意をする
2100風呂を入れる
2110〇〇を読む
2120風呂に入った
2130明日の書類を整備する
のように徹底されていないからロギングができていない、と自己評価してしまっているのかもしれない。
ここで裏技を使おうと思う。ロギングができたかどうか、ということは、朝起きた瞬間にメモ帳でその日の日付のメモを作成したか、どうか、ということにしてみてはどうか。
ハードルを下げていくのである。もちろんその日に起こった出来事を書いてみるも良い。やろうとしていることを書く事も良い。ただ、ロギングを続けている自分という自己認識がまずは欲しいので、この日付だけロギングを試してみる。
こういうのは自分で考えて導入していかないと続かない、ということはこの一年いろいろな場面で嫌というほどわかって来たはずである。
このノート更新メソッドですら自己流である。10分1000文字でさくさくぽいというところ。
何のためにとかその意味がなんとかというのは、後からでもついてくると思う。もちろんあらゆる行動が衝動的であったりするのはしんどいのだろうけれど、意味がない行為が全くできないというのもまた極端なものである。

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