人生はやり直しができるというより、やり直しが人生。
思ったことを書く。書いていくと書いていたけれど、どこに行くのかわからなかったので、書くという表現に変更した。
テレビではプロジェクトXで引きこもりの話がやっている。
僕も3年ほど引きこもりだったのでいろいろ思うところはある。
そこで、でていた人が毎日日記を書くことで自分を支えていた、と述べていた。ナイスな発想だと思う。
逆に僕は日記というものをあまり書いたことがない。
このnoteは僕の脳内の反射みたいなもので、日記とはほど遠い。
僕が引きこもりの時一体何をしていたかというと、もっぱら勉強だった
僕は僕で、自分が一応のところ浪人生という枠組みの中に押し込んで、自己形成を図っていたのだなと今になって思う。未だによく僕の親はそれを許してくれていたな、と思う。まぁほとんど放任みたいなものだったのだけれど。
未だに、自分がこうして社会の歯車の1つとしてぎちぎち動いていたり、土日は土日で自分なりに楽しんだり、一日一日失敗しつつなんとかバランスを保とうとしていることが、ちょっと不思議な気がする。シンジラレナーイ。
引きこもりというより、引きこもる決断をする前にゾンビのように生きていた専門学校の時代とか、あらゆる方法で現実逃避をしようとしていた中高生の時を思い出す。あの期間が無駄とかそういうことが言いたいのではない。自分は今の自分になるための道をそれなりに進んでいたのだ、と思う。
ただたまに、眠れない時とかに考えるとよく寝れるトピックスとして、僕が引きこもって得た概念(あたり前のことを当たり前にするということ)をもう少し早めに、それこそ中学生ぐらいにで得ていたら、僕の人生は・・・おなじ道を歩まなかったとは思う。
今の僕のこういった形にもならなかったか、なんてことを考える。
人生は何度でもやり直せると思う。
やり直すのは大変かもしれないけれど、人生は大変なのである。
やり直したところで、大変じゃなくなるわけでもない。
上手くいっている人も、多かれ少なかれ問題がある。
その問題に対して関わる中で自己変容のチャンスみたいなものが訪れる。そこから逃げなければ、それは1つのやり直しだろう。
職業や立場として安定であったり、達成のような物を設定したとしても、そこに安住できるものではない。
僕はそういったことを実感できた。
その意味で引きこもっていた経験は僕にとっての財産である。
今ココのやることに向き合ってばりばりやっていく、というスタイルを確保しつつあるこの頃、ふと過去のことを思い出して懐かしく思いつつ、
今大変なことも、過去になってしまうことに少し寂しさと安心を覚えている。