暇とケアの倫理学。
暇について考えている。
僕が最近毎日2キロだけれど、走っている理由は暇を感じるためだ。
noteなんぞを書いている理由も暇を感じるため。
そう考えると、ひょっとして僕が今苦手に思っているようなことも発想を変えると、案外できてしまうのではないだろうか。
そんな淡い期待を明日実践してみようと思う。
それは何かというと、整理整頓である。
僕は非常に整理整頓が下手くそである。
物を捨てることも下手で、いつか使うかもしれない、と思ってしまったり、捨てる判断を下す前にとりあえずどこかに置いておこうとしてしまって、書類を貯めてしまう。
何かのメモを書くことも多いのだけれど、そのメモの管理も下手くそで、一体何のメモをどこに書いたのかということが全くわからないということになってしまっていた。
とはいえ、メモに関しては少し改善がみられる。
理由は二つある。
一つはポメラである。
だいたい考え事やメモみたいなもの、計画とかいろんなものをすべてこれに放り込んでいる。もちろんこのnoteも。
だから少なくともここに入っている、という安心感がある。
それにデジタルなのでかさばるということはない。
二つ目は少し大きめのスケジュール帳である。
1週間、月、1年ぐらいのスパンのページとだいたいのメモなんかをここに放り込んでいる。
職業柄一週間で何を行うか、ということをある程度把握(把握できているとはいっていない)することが求められる。
それを一冊にまとめている。
環境を変えるという工夫は案外できている。それが効果を発揮している。
さて、次は認知行動療法とまではいかないまでも、暇についての最近の僕の考えを実践する番である。
机上が整理できていないということは、自分が忙しいということ。
暇がないということになってしまう。おーのー。
逆に考えると、例えば毎日3分の机上整理を4,5回行う(一日12分ぐらいの計算)だけで、僕には机上を整理する暇なんてものがある、と思える。
これはとても主観的な話だ。だけれど、僕という人格へのアプローチとしてはなかなか効果がある。
実際暇を感じるために走るというへんてこなことを考えている。
少し前に書いていたかもしれない。
僕は何かの目的を設定してそれを達成することが下手で、サブの目的として設定することでかえって実行出来てしまうことが多い。
暇を感じるため、ということが今まで考えていたことの軸になりそうで、ちょっとわくわくしている。我ながら珍しい。