わさ゛わさ゛70日連続更新
流された方が楽だという意見はある。
ただ、なぜ楽をしたいのか。
楽をして、流されない部分を作ろうとしているのか。
ナンセンスな発想だと思う。
状況や環境に合わせて生きるということが、動物の動物たる所以だろう。
雨が降ったら傘を差したり、おなかが減ったら食べれそうなものをもしゃもしゃ食べる。
それは流されて生きている。
逆に言うと、流されない生き方とは、なんだろうか。
それはおそらく、わざわざする、ということだろう。
生きることに必要ではないのに、わざわざする。あえて行うよりもわざわざの方が聞いていて心がざわざわする気がするのが採用した。
わざわざすることを増やしていくと、人生が豊かになる。
これは逆説的に聞こえるかもしれないが、何か周りに合わせてうまく生きていくということは、なんだか嫌だなと思う。
実際には僕はうまく合わせているかどうかは置いておいて、そこまで波風立てずに粛々と生きている方ではある。だけれど、わざわざする、ということに関しては僕はそれを尊重したい。自分に対しても人に対しても。
簡単に言うと無駄なことをする、ということである。
一体何の役に立つのか、とか、儲かるのかどうかとか、そういう洒落臭いことをひとまとめにしてぽいっとしてしまう。
そして自分に向き合ってみる。ここで大事なことは、何かをわざわざしたところで何か見つかる保証はないのである。何かが得られるとか成長できるとかそういうことを目標にしてやってしまうとだめである。
むしろ、わざわざやってみる、とひょっよして・・・?という場面に出くわすことが多い。
これはなんだろうか、僕は昔からこういうことがよくある。
Aという目標を掲げて頑張る、ということができない。
だから何もしない、というのが僕のteen時代だった。
今はBという目標をたててやってみると、なんだかその手前にあるAがクリアできてしまっている、という発見がある。
もちろんBは達成できていない。でも大丈夫。それを包括するCという目標を立ててしまって取り組むことができれば・・・。
みなさんはどうだろうか。ストレートに目標を掲げてそれを達成できているだろうか。
僕はなかなか難しい。
だからこの目標をあえてサブにおいてメインの目標は別に設定するみたいなことをわざわざしている。
心がざわざわしないように、自分はできていたよ今日もと思えるように。