優しさは歩いてこない、だから書いていくんだね。

寝るタイミングを逃してしまったので、いつもはこうなったときに更新をさぼるNoteを更新する。
そもそも、朝早起きしないといけないのだろうか。
規範意識について考えた。

以前の職場の都合で僕は五時起きの生活を送っていた。拷問だと思いつつ人間悲しいかななれてしまうものである。
最近は全くその必要がない。
ただ、名残でなんとなく目覚ましを5時に設定して、結局2度寝したりとかしてしまっている。
7時間睡眠を確保するために、10時に寝ようとしているが、今日はこの時間である。
10時にベッドには入れているけれど、そのまま寝付けているか、というと難しい。

ということは、5時半ぐらいに設定して、ただし二度寝はしちゃだめよん、ということの方が向いているのかもしれない。

去年の夏から働き方改革であったり、ノート術などを考え始めている。
ある程度実を結んだところもあるが、結局答えみたいなものがあるのではなくて、その都度書き続けて考え続けなければならんのだな、といい意味での諦念のような境地に至っている。境地だなんていうと大げさな、と思われるかもしれない。でも僕は毎日こうやって書いて考えているのだからかまうことはない。

試行することの大切さについて、最近はよくかみしめている。
僕は以前は失敗することが怖くて嫌だったなぁと思う。
失敗したときについ反射で隠そうとしたりごまかそうとしたりしてしまう。
でも大事なことは、失敗したことではなくて、失敗の原因と次にそこからどう考えてどう振る舞うかということだろう。頭ではわかっている。
最近それが少しずつ腑に落ちている。

誰しもうまくいかないときや失敗することはある。
誰しもというか、自分が一目置いている人ですらそうなのである。

逆に考えると、自分が嫌いな人の不幸についても喜ぶべきではないということだろう。
ちょっと精神的に潔癖症なところがあるのかもしれない。
悪口みたいなものに同調したくない。
悪口自体がだめなことだ!という話ではなくて、悪口を言うことによって憂さ晴らしをしているような状況が嫌だなぁと感じるということである。

悪口を言ってはいけない、というのもある種の規範なのだろう。
論理的に話をしないといけない、だなんてまさに規範そのものである。
ただどうしても、その論理を手放すことができない。これは論理的なものではないのか。
ものを考える時には言葉に頼らざるを得ず、仮にそれが詩だとしても、そこには論理のようなもので支えられている。ルールがある。

ルールを破るということは、また別のルール、より高次のものが設定される場合に限る。
自分のたまさかの気分に左右されてはいけない。あ、これもまた規範か。

書くことによって落ち着いて考えられる。
コスパがよすぎる。みなさんどうですか、ポメラでも買って、noteを作成としゃれこんでみるのは。特に何が得られるわけではないし、わざわざ書くというのはめんどくさいのだけれど、そのわざわざ性が、わざわざ生きている自分自身の存在を優しく肯定してくれる。

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