『コンビニ人間』を読んで、地震のことを考えて、明日から仕事が始まる。
決められたとおりに動くことを求める気持ちはわかる。
僕は2年ほどコンビニバイトをしていた。
家の近くの今はもうなくなって別の店舗になってしまったコンビニだった。
近くに何か大きな建物や駅があるわけではなかったうえに、駐車場は小さかったので、お客さんはあまり来ていなかった。
なのに同じ系列の店舗が少し歩くだけでもう一軒存在していた。それももう潰れた。
僕は朝のシフトに入っていて、毎回必ず5分ほど遅刻していた。
バイトリーダー的な人にも微妙に怒られながら、へらへらしていた…と思う。
すべての仕事がめんどうだった。たばこの銘柄を覚えたりすることや。電子マネーの支払いに対応すること、宅急便の荷物を預かることなど。
発注も一部任されていた。でも僕の担当は賞味期限が長い比較的楽なところだった。
時給もとても安くて、特にやりがいのようなことを感じたことがない。
マニュアルに従うのは窮屈だと感じていた。
でもそれは、今思うとマニュアルというものを理解していなかったからである。
これはこうする、ということが腑に落ちればむしろ僕はマニュアル人間になれる、ということは最近になってようやくわかった。安心感が違う。
だから、というわけではないけれど、『コンビニ人間』の中の主人公の気持ちは少しわかる。少しどころではないか、結構わかる。
大学の時に何とはなしに読んでみて衝撃を受けた。衝撃というか、そらそうだよな、わかるよっていう感じ。
小中学生の時は本能のまま生きていたけれど、高校生になって怒るということから距離をとってみた。
とってみたら、なんだか自分がとても落ち着いてしまった。
言語偏重人間とでもいえばいいのか、その言葉の定義や意味に拘るようになった。『勉強の哲学』でいうところのアイロニー人間になった。
しかし、アイロニーに生きることは不可能である、ということも最近なんとなくわかってきて、『勉強の哲学』も読み返している最中なので、どんどんぼけていきたい。その両者のバランスが大事なんだよね、と思う。
本能と理性のバランスなんてとても陳腐な話なんだけれど、古今東西それだけが問題だといっても過言ではない。あとは「汝自身を知れ」という神託ぐたいか。