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【小説】カラスの子


 朝の情報番組で、30代の男が家出した少女を自宅で軟禁し、逮捕されたというニュースをやっていた。
「私は彼女を助けたんです」
 警察の取り調べに対して、容疑者の男はそう供述したそうだ。

 僕は何の気なしにそれを眺めながら、味のしない朝食を無理やりに飲み込んで、機械のように外出する準備をしていた。

 アパートを出ると、太陽の光と冬の寒さが肌に刺さった。コートのポケットに手を突っ込んで、別に急ぎたくもないのに早足になる。

 僕はこの世界にとって取るに足らない存在。

 今から僕が向かっていく〈職場〉とは、〈社会〉とは、それを最も思い知らされる場所だった。

 思えば、僕はこの朝、気がおかしくなっていたのかもしれない。

 一方通行の真っ直ぐな道路の前方に、ゴミ置き場が見えていた。今日は生ゴミの日だった。

 1羽のカラスが、そのゴミ袋の山にかけられた黄色のネットを、くちばしで器用に引っ張って剥がそうとしていた。くるくるした丸い目とぴょんぴょん跳ねるその動作がなんだかとても可愛らしく思えて、僕は微笑ましいと感じながらその姿を眺めていた。

 すると、後方から小太りで白髪混じりの男が自転車でやってきて、僕を追い抜いていった。その男はカラスの姿を認めると、ハンドルをわざと左にきって、ネット剥がしに夢中になっているカラスをおどかした。
 カラスは軽く翼を広げて、道の真ん中のほうへ飛び退いた。

 そのシーンを目にした僕は、その男に対して無性に腹が立った。
 相手がカラスだというだけで嫌がらせをしてもいいと思っていること、自分が人間だというだけで相手よりも高貴な存在だと思い込んでいること、いったん下に見た相手には強気に出られること。そういった男の浅はかさや傲慢さが許せなかった。

 カラスに意地悪をした男は、前方の赤信号で止まっていた。僕は本来、その手前で右折するはずだったが男の背中を見ていると、やらなければならない、という衝動に駆られた。

 僕は男の背後から近づいて行って、自転車に跨ったその身体を力いっぱい突き飛ばした。
 よろめいて振り返った男は、一瞬驚きと恐怖の入り混じった表情をして、それから不愉快さを露わにした。

「何をするんだ…!」

 男が言い終わらないうちに、僕は彼の胸ぐらを掴んでいた。再び、男の瞳が恐怖に揺らいだ。それを見た瞬間、僕の頭が急激に冷たくなっていくのがわかった。
 これ以上は、ダメだ。
 僕は持て余した気持ちを舌打ちで吐き出して、男の胸ぐらを掴んでいた手を緩め、その場を離れた。

 僕はゴミ置き場まで引き返した。男は追いかけてはこなかった。

 男におどかされたカラスは、様子を窺うように少し離れたところで佇んでいた。

 ゴミ袋の山に目を向けると、一口かじっただけで捨てられたリンゴが、どこかの袋から飛び出して転がっていた。僕はしゃがんでそれを掴むと、砂利を払い、カラスに向かって差し出した。
「まったく、もったいないことしやがって。なあ。ほら、食えよ」
 僕が手を伸ばしてリンゴを地面に置くと、カラスは丸い目をきょろきょろさせながら徐々に近づいてきた。そいつがリンゴをついばみ始めたのを見届けて、僕はその場を立ち去った。

 僕があの男にしたことは、正しくないと思う。
 あの一連の出来事を目撃した誰かが警察に通報したり、あの男自身がどうにか僕の番号を調べ上げて電話をかけてきたりするかもしれない。
 職場についてから急に不安になったけれど、そんなことが起こる気配は微塵もなく、退勤時間を迎えるころには、あの男のこともカラスのこともほとんど忘れていた。

 残業を終えて職場を出た頃には9時を回っていた。大通りを少し逸れると辺りは真っ暗で、明るい星がひとつだけ視界の隅で揺れていた。

 コンビニの袋を手にぶら下げて、一方通行のあの真っ直ぐな道路に差し掛かる。
 カラスがいたゴミ袋の山はきれいにかたづけられ、黄色のネットはそばのフェンスに括られていた。 

 そのゴミ置き場のそばまで近づいたとき、僕は「あっ」と小さく声を上げた。

 そこに高校生くらいの少女が、ひとりで立っていたのだ。
 黒い上着に黒いパンツを身につけた、黒い髪の少女は、手元のスマートフォンに目を落としていた。待ち合わせでもしているのだろうか。それにしても、こんなところで、こんな時間に?

 少女を横目に通り過ぎようとしたとき、ふいに彼女が顔を上げて、目があった。つやつやとした黒い瞳だった。

 するとまた、強い衝動が襲ってきた。
 僕はこの子に、声をかけなければならない。

 少女の前を2、3歩通り過ぎたところで立ち止まり、振り返った。彼女も僕のほうをみていた。

「どうしたの?」
 僕は訊ねた。
「家に帰れないの」
 彼女はぽつりと言った。

「どうして?」
「家出でもしてきたのか?」
 どちらの質問にも、彼女は俯いたまま答えなかった。
「警察にいく?」
 そう訊いたときだけ、強く首を横にふった。
「おじさんのとこに連れてってくれない?」
 彼女がそう言って顔を上げた。

 その瞬間、僕ははっとして息を呑んだ。
 彼女の言葉に、リンゴの匂いが絡み付いていたからだ。

 改めて、全身黒づくめの彼女を見る。
 まさかこの子は…、いや、そんなはずがないだろう。そんなこと、現実に起こるわけがない。

 僕は小さく深呼吸をして、この状況にどう対処すべきかを考えた。

 冷静になれば、警察に連絡してこの子を引き取ってもらうのが妥当だろう。この子の言う通り僕の家に連れていくなんて、誘拐と誤解されても仕方ない。そんなことしたら僕が警察に連れていかれる。それはまずい。わかっている。わかっている…。

 でも。この子はそれで大丈夫なんだろうか?

 少女は相変わらず、懇願するように僕のことを見上げていた。その瞳の色を見ていると、僕の心が暖かい何かに浸されていくように、癒されていくのがわかった。
 僕のことを必要としてくれる、美しい瞳。

 もしも、この子が本当に人間じゃなかったとしたら?

 この子といれば、僕の人生は変わるのかもしれない。

「おいで」

 僕が彼女の手を掴んで引き寄せると、彼女も僕の腕にしがみついてきた。もう一度、ふわりとリンゴの匂いが漂った。

 アパートへ向かって歩きながら、僕は自分に言い聞かせた。僕は、何も悪いことはしていない。この子に晩飯を分けて、風呂とベッドを貸すだけ。僕は寝袋にくるまって床に寝ればいい。朝になったらこの子だって、どこか別の場所に行くだろう。朝食代を渡して、それでさよならだ。たった、それだけのことだ。

 少女のぬくもりが腕にまとわりついていた。生き物の温度を感じたのは、一体いつぶりだろう。
 その温度は徐々に僕の体のなかへ浸透し、心まで侵食してきた。他の何かでは代えることのできないぬくもりに、喜びが溢れ出して全身を駆け巡っていく。本能だった。
 一方でその喜びが強くなればなるほど、自分自身に対する疑念もまた大きくなっていった。
 この子の前で、僕は絶対に理性を保っていられるか。たったそれだけ。本当にそれで済ませられるのだろうか。何が起ころうともそれ以上のことはしないと、100%で誓うことができるだろうか。僕が今やろうとしていることは、客観的に見て、合理的な説明のつくことなのだろうか。

 気がつけば、アパートのエントランスにたどり着いていた。僕は立ち止まったまま、動くことができなかった。少女が訝しげに僕を見上げる。

 僕はゆっくりと、彼女の腕を振り解いた。 
「逃げて」
 僕は真っ直ぐ前を向いたまま、少女にそう言った。
 僕の体から離れた彼女は、怯えたような表情をしていた。無言で首を横に振る。
「逃げろ、行け」
 僕は財布から一万円札を取り出して彼女に握らせた。それでもなお、彼女は「いやだ」と涙混じりの声を出して動かない。
「いいから逃げるんだよ!はやく!」
 僕は彼女に背を向けて怒鳴った。
 しばらくするとすすり泣く声が聞こえてきて、静かに彼女が去っていく気配がした。

 自分の部屋へ帰った僕は、電気もつけずにベッドに腰をおろし、考え込んでいた。

 あの子はこの夜をどうやって過ごすのだろう。帰りたくない家に帰って家族にひどいことをされるか、一晩中さまよい歩いて警察に連れていかれるか、この冷たい町のどこかで凍えながら朝を待つのか。

 僕の決断は正しかったのだろうか。それとも間違いだったのだろうか。もし答えがあったとして、それは誰にとっての正解、もしくは誤りなのだろう。この問いに対して、絶対と言えるものは果たしてあるだろうか。

 いずれにせよただ一つ確かなことは、明日からも何も変わらず、冴えない僕の毎日が繰り返されるということだけだ。

 今朝出会ったあのカラスの、つやつやとした瞳を思い出す。

 僕は立ち上がって、部屋のあかりをつけた。

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